映画館に貼られていたポスター。
そのビジュアルを見た瞬間、「これ、きっと好きなやつだ」と思って、
何の前情報もなく、観に行ったのが『落下の解剖学』だった。
観終わったあと、言葉にならないモヤモヤがずっと残った。
「真実は何だったのか」ではなく、
「人は何を信じたいのか」で物語が動いていく感じ。
その構造が、この世界そのもののように思えた。

落下の解剖学(字幕/吹替)
「どう見えるかが大事だ」
作中で、弁護士が言う。
「真実じゃなくて、どう見えるかが大事だ」と。
それを聞いたとき、
ああ、これは映画の中の話だけじゃないなと思った。
裁判はもちろん、
会社でも、学校でも、SNSでも、
わたしたちはいつも“どう見えるか”で人を判断している。
もっと言えば、“どう見られるか”を操作できる人が、
生きやすくなっていく構造が、もう社会全体にしみついてる。
販売員だったとき、それをすごく感じていた
昔、販売の仕事をしていた。
接客というのは、「お客様にどう見えるか」をつくる仕事でもある。
丁寧に、やわらかく、感じよく。
言葉や表情、所作、立ち位置、声のトーンまで。
自分の印象を設計しながら接することが、プロの態度とされていた。
もちろん、それが必要な場面もあると思う。
でもその環境に長くいると、
「本当の自分を出さないこと」が正解みたいになってしまって、
ふとしたときに自分の輪郭が薄れていく感覚に襲われた。
会社でも、“良い人”は印象で決まることがある
映画を観ながら、会社でのことも思い出した。
誰かが「あの人って良い人だよね」と言うと、
それが半ば“事実”のように扱われる。
反対に、「ちょっと変わってるよね」と言われれば、
その人の印象はあっという間に、周りの中で固定されていく。
それは、一人ひとりの“主観”のはずなのに、
多数派の印象が、その人のイメージを決めてしまう。
良いか悪いか、ではなく、
「大半がどう思っているか」で物事が判断されていく。
そしてそれが「普通」と呼ばれる。
それって、どこかこわいなと思う。
善悪や真実じゃなく、「どう見られるか」が優先される世界
『落下の解剖学』には、
加害者も被害者も明確に描かれない。
けれど、観ている自分の中には、
「この人はどうなんだろう?」という感情がずっと渦巻いている。
そこにあるのは“真実”じゃなく、
“印象によって組み立てられた物語”だった。
この世界も同じかもしれない。
「何があったか」ではなく、
「どう伝えられたか」「誰が語ったか」
そのほうが人の判断に強く影響する。
わたしは、その中でどう生きてきたのか
印象に左右される社会に、
わたし自身もずっと違和感を抱えてきたと思う。
繊細で、細かくて、考えすぎて、
人に「何を目指してるの?」とか「やりすぎじゃない?」と言われたこともある。
でもその“やりすぎ”も、“真面目すぎ”も、
結局は見え方によって価値が変わってしまうものだった。
誰かにとっては“真面目で誠実”で、
誰かにとっては“融通がきかない”と言われる。
どちらが本当か、じゃない。
ただ、それぞれの目にそう“映った”だけのこと。
まとめ|見え方の外側で、静かに考え続ける
『落下の解剖学』は、
「人がどう見えるか」だけで物語が進んでいく、
まさに今の社会そのもののような映画だった。
そしてその世界に、わたしは居心地の悪さを覚えながら、
それでもどうにか順応しようとしてきたような気がする。
見え方の操作が上手な人が生きやすい。
でも、わたしはたぶん、ずっとそこに違和感を持ち続けると思う。
白でも黒でもない、
“どちらとも言えない”というグレーな領域を、
それでも考え続けたいと思った。
この場所では、そんな思考の途中も
こうして残しておけたらいい。