昨日、前の会社の後輩から久しぶりに連絡があった。
少し沈んだ声で、「ちょっと聞いてもらってもいいですか…」と始まったメッセージ。
話を聞いてみると、会社の上司から言われた言葉が、ずっと頭の中でぐるぐるしているという。
何を言われたのかは、ここでは書かないけれど(…気になるけどね、笑)
その言葉を受けて彼女はこう言った。
「私、普通にできないんですよね」
その一言には、たぶんいろんな気持ちが詰まっていたと思う。
“普通”にできない自分を責めているようにも聞こえたし、
“普通”になろうとして頑張ってきた跡がにじんでいた。
結局、彼女は転職することを決めたそうだ。
でも新しい環境でも、「また同じようなことがあったらどうしよう」
「パニックになったら理解されないかもしれない」って、
自分の“普通じゃなさ”を、どう扱っていけばいいのかをずっと悩んでいた。
「普通ですか?」と聞きたくなるとき
その言葉を投げた上司は、じゃあ“普通“なのだろうか。
その人にとっての「普通ではない」は、
ただ自分の枠の外にあるものを排除したいだけなんじゃないかと、思ってしまう。
人って、よくも悪くも、それぞれ何かしらある。
癖もあるし、苦手もあるし、苦しみ方だって違う。
でも日本は特に“横並び”の文化が強いから、
そういう違いに敏感で、時に過剰に反応してしまう社会でもあると思う。
「空気を読めること」が大事にされる中で、
ちょっとでも“読み方”が違うと、「変わってる」「扱いにくい」とされてしまう。
そもそも“普通”って、誰が決めるんだろう?
社風にも「普通」がある
会社って、知らないうちに“その会社の普通”ができあがっていく。
いわゆる社風ってやつ。
会社が大きくなればなるほど、
そこでの“当たり前”がルールのようになって、
そこに馴染めない人は、「合わない人」とされてしまう。
でも、もしその会社自体がちょっとおかしかったら?
そこに染まれない人の方が健全かもしれないのに、
なぜか「おかしい人」として扱われてしまう。
そう考えると、
「普通かどうか」で人を判断すること自体が、
とてもグラグラした足元の上でされているように思えてくる。
抑えていることが「普通」になるのか
よく、「大人っていうのは感情を抑えられる人」と言われる。
そのとおりかもしれない。
でも、抑えているからといって、それが“普通”なのかといえば、なんだか違和感がある。
誰だって、好き嫌いがあって、
反応してしまうものがあって、
何かに過剰に敏感だったり、無関心だったりする。
それらを表に出さず、我慢していることが“普通”とされるなら、
きっとこの世界には、「普通に見える人」がたくさんいても、
「ほんとうに普通な人」なんて、たぶんいない。
それでも、“普通”じゃないと思われたくなくて、
みんな少しずつ自分の感覚を押し殺して生きてる気がする。
普通を問うこと自体が、もう無意味なのかもしれない
最近、思うことがある。
“普通”かどうか、ってそんなに大事なことなんだろうか?
みんな違っていい、と言いながら、
その実、いちばん苦しんでいるのは「違っていてはいけない」と思い込んでる人たちなのかもしれない。
この世界も、社会も、国も——すべて“個”の集まりでできてる。
だからこそ、ひとりひとりが違っていて当然だし、
むしろ違っていてくれないと、つまらない。
だから、たまに思う。
「普通を問うこと自体が、もう意味のないことなんじゃないか」って。
わたしも普通ではないと認める
わたしも昔は、
“ちゃんとして見られたい”とか、“変わってると思われたくない”って思ってた。
でも今は、「普通じゃないよね」と言われたとき、
それは「あなたらしいね」っていうことかもしれないと思えるようになった。
「変わってるね」の裏には、
たぶん“あなたのままでいることが、ちょっと羨ましい”という感情が
隠れていることだってある。
だから、わたしはわたしのままでいいと思う。
後輩にも、そう伝えたい。
そして、もしこれを読んでくれている誰かが、
「自分って変なのかな」と悩んでいるなら、そっと伝えたい。
あなたは“普通”じゃなくても、大丈夫です。
むしろ、“普通じゃないあなた”だからこそ、誰かの心に響くことがきっとあるから。