MENU

繰り返し観る映画が、私に教えてくれたこと。──新しい情報より、大切な「問い」をくれる存在

翻訳

目次

序文

次へ、もっと次へ。
世の中は、まるで私たちを急かすように、新しい物語を、新しい情報を絶えず送り込んでくる。SNSのタイムラインを少しスクロールすれば、昨日まで知らなかった作品のレビューが溢れ、見なければ損だと囁かれているような気さえするのだ。

そんな情報の渦の中で、ふと息苦しさを覚えることはないだろうか。
大量の物語を「消費」することに追われ、本当に自分の心に響くものを、ゆっくりと味わう時間を見失ってはいないだろうか。

私は、そんな時、決まって観る映画がある。
もう何十回と観て、セリフも、次の展開も、すべて知っているはずの、あの映画。

それは、新しい「情報」をくれる存在ではない。
ただ、私の心に大切な「問い」を投げかけてくれる、そんな存在なのだ。

今日は、私がなぜ新しい映画ではなく、一本の映画を繰り返し観るのか。その時間の中に、どんな宝物が隠されているのかを、そっと打ち明けてみたいと思う。

静かな気づきの3行サリマ

新しい物語を追いかけることを手放した時、心に穏やかな時間が訪れた。
繰り返し触れる物語は、観るたびに違う表情を見せ、自分自身を映す鏡となる。
それは消費ではなく、自分の内面と深く向き合うための、対話なのだ。

なぜ、新しい映画ではなく「あの映画」を観るのだろう?

「答え」ではなく「問い」をくれる存在

新しい映画を観終わった後、私たちは「どうだった?」と感想を求められることが多い。「面白かった」「感動した」という、分かりやすい「答え」を用意しなければならないような、そんな無言の圧力を感じることがある。

けれど、繰り返し観る映画は、私に何も求めてこない。
ただ、そこに在るだけだ。

結末を知っている物語は、私を評価しない。代わりに、スクリーンの中から、登場人物たちの眼差しを通して、問いかけてくる。

「あなたにとって、本当に大切なものは何ですか」
「もし、あなたがこの状況に立たされたら、どうしますか」

それは、他人と共有するための「答え」を探す作業ではなく、自分だけが知っていればいい「問い」を受け取る時間なのだ。 その問いは、すぐに答えが出るものではない。だからこそ、日々の暮らしの中で、ふとした瞬間に思い出しては、じっくりと考える。そのプロセスこそが、自分を深く知るための、かけがえのない道のりになるのだった。

観るたびに、違う顔を見せてくれる鏡のように

不思議なことに、あれほど繰り返し観た映画なのに、観るたびに、心に響く場面が違う。

仕事で少し疲れている時に観れば、主人公が困難を乗り越える姿に静かな勇気をもらう。誰かとの関係に悩んでいる時に観れば、登場人物たちの何気ない会話の奥にある優しさに、はっとさせられる。

まるで、映画そのものが、私の心の状態を映し出す鏡のようだ、と感じる。
物語は変わらない。変わっているのは、いつも私の方なのだ。

以前は気づかなかったセリフの深みに涙したり、昔は共感できなかった登場人物の弱さに、今の自分を重ね合わせたり。それは、過去の自分との静かな再会にも似ている。あの頃の私は、このシーンをどんな気持ちで観ていたのだろうか。そんな風に、一本の映画を通して、自分自身の変化や成長の軌跡を辿ることができる。

それは、ただノスタルジーに浸るのとは少し違う。
変わっていく自分を、変わらない物語が、そっと肯定してくれるような、そんな温かい感覚なのだ。

情報の「消費」から、物語との「対話」へ

あらすじを知っている、という安心感

次から次へと新しい作品を追いかけることは、刺激的で楽しいことでもあるだろう。しかし、それは時として、物語を「味わう」ことから私たちを遠ざけてしまう。結末はどうなるのか、誰が犯人なのか。そんな筋書きを追うことに必死で、ディテールに宿る豊かさを見過ごしてしまう。

その点、繰り返し観る映画には、絶対的な「安心感」がある。
結末を知っているからこそ、安心してその物語の世界に深く身を委ねることができるのだ。

心を無防備にして物語を散歩していると、一度観ただけでは見過ごしてしまうような、登場人物の微かな表情の変化や、背景に置かれた小物の意味にふと気づく。観るたびに新しい視点が生まれ、物語の世界がさらに深く、豊かになっていくのを感じる。

たとえば、何度も観た『ローマの休日』のラストシーン。セリフは何もない。ただ、コツ、コツ、と大広間に響く一人の記者の足音。その背中は、ひとときの夢から覚め、また自分の現実へと歩み出す覚悟を物語っているようだった。それは単なる別れの寂しさだけでなく、過ごした思い出はいつまでも二人の心の中にあり続けるだろうな、という確信にも似た余韻を、あの足音だけが伝えてくれるのだ。

そうした細部にこそ、作り手が込めた想いや、物語の本当の深淵が隠されている。結末を知っているという心の余裕が、物語を「消費」するのではなく、深く「対話」するための扉を開けてくれるのである。

自分の「好き」を、深く耕す時間

たくさんの作品に触れることは、自分の「好き」という感情の、輪郭を広げてくれることかもしれない。さまざまなジャンルを知り、世界が広がっていく感覚。それもまた、素晴らしい体験だ。

一方で、一つの作品に繰り返し触れることは、自分の「好き」の、根っこを深く、強く、耕していく作業なのだと感じる。

「何度観ても、このシーンはやっぱり良い」。
そう再確認するたびに、自分の心の中心にある「好き」という感情が、流行や気まぐれではない、確かで普遍的なものであると実感する。その感覚は、自分という人間の輪郭を、よりはっきりとさせてくれるのだ。

なぜ私は、この物語にこれほど惹かれるのだろう。
なぜ、この登場人物のこの一言が、いつまでも心に残るのだろう。

その「なぜ」を掘り下げていくことは、そのまま、自分自身の価値観や、人生で大切にしているものを再確認する旅になる。ただ、私が、私の心で、それを「好き」だと感じている。 その純粋な感覚を、何度も確かめ、大切に育んでいく。

情報過多の社会の中で、自分だけの「好き」を深く理解していることは、ささやかだけれど、とても力強いお守りになるのだ。

まとめ

もし、あなたが情報の波に少し疲れてしまったなら。
次々と新しいものを追いかけることに、ふと虚しさを感じてしまったなら。

一度、立ち止まってみるのもいいのかもしれない。
そして、かつてあなたの心を強く揺さぶった、一本の映画を、あるいは一冊の本を、もう一度手に取ってみてはどうだろうか。

それはきっと、新しい知識や刺激的な体験をくれるわけではない。
けれど、慌ただしい日常の中で見失いがちだった、あなた自身の本当の気持ちや、内なる静けさを、そっと取り戻させてくれるはずだ。

繰り返し触れる物語は、いつだってあなたを待っていてくれる、古くからの友人のような存在。

あなたの心の中には、どんな静かで大切な物語が、今も息づいていますか。
その物語との対話が、あなたの明日を、そっと照らす光となることを願っている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次