そもそも私は、映画に★(星)で評価をつけることに、ずっと違和感があった。
だから、どんなに感動しても、逆にどこかしっくりこなくても、
星をつけるということ自体をしてこなかった。
星3とか、星5とか。
ぱっと見でわかりやすいし、参考にする人も多いと思う。
でもその評価って、誰かの完全な主観でつけられたものであって、
感動の深さや心の揺れまで、数字で測れるのかな?って思ってしまう。
評価を否定しているわけじゃない。
でも、星の数を見た瞬間に「これは良い映画」「これは微妙」って
ラベルを貼ることに、どこかザワザワする感覚が残る。
こういうところ、たぶん「めんどくさい人」って思われる理由なんだろうな、って自分でも思う。笑
でも、映画ってもっと曖昧で、余白があって、
“点数じゃない場所”で何かを残していくものだと思っている。
評価に囲まれた世界の、息苦しさ
星の数だけじゃなくて、
私たちは日常のいろんな場面で「評価」に囲まれて生きている。
たとえば、会社の人事評価。
仕事ができるとか、できないとか。
本領が発揮できたとか、そうじゃないとか。
AだのBだのCだの、アルファベットで人を分類するような言い方。
それがそのまま、お給料やボーナスに反映される。
なんだか、“人としての値段”を決められてるような気さえしてしまう。
一瞬でも調子を崩したら、「評価が下がる」。
その緊張感が、じわじわと心にのしかかってくる。
「がんばったけど、結果が出なかった」じゃだめなのか。
「今年はあまり調子がよくなかったけど、来年はやれるかも」じゃだめなのか。
全部なくなればいいのに。
AもBもCも、星5も星3も、点数も、評価も。
ぜんぶ手放して、
「今日は、なんとなくいい日だったな」ってだけで生きられたら、
もう少し、呼吸がしやすくなる気がする。
「評価しない」って、簡単じゃないけど大切にしたいこと
最近は、自分の中にある評価の目線にも、少しずつ敏感になってきた。
「評価されるのが苦しい」と思うなら、
きっとそれと同じくらい、誰かを評価する側にもなりたくないって思ってる。
できるだけ、点数をつけずに人と接したい。
上手いとか下手とか、有能とか無能とか、
そういうラベルを貼らないままでいたいと思う。
でも、たぶん完全にはできていない。
どこかで無意識に「この人、すごいな」とか
「この人はちょっと苦手かも」とか、
感覚で分類してしまってる自分がいる。
評価って、他人に向けるものじゃなくても、
ふとした瞬間に心の中で生まれてしまうものなんだと思う。
だからこそ、それに気づくことが大事なんじゃないかなって、最近は思うようになった。
自分の個性や、評価じゃない部分を守りたいなら、
他の誰かの“まだ形になっていない部分”も、大事にしたい。
言葉にしきれない気持ちや、うまくできないタイミング、
目に見えない努力や、静かに積み上げている何か――
そういうものを、ただそっと見守るようなまなざしでいたい。
評価ではなくて、存在をそのまま、受けとめるような。
評価のない世界は、少し不安で、でもきっと自由
「評価のない世界」って、
もしかしたら「お金のない世界」にも似ているのかもしれないと思った。
それくらい、評価はこの日常に深く入り込んでいて、
私たちのあらゆる行動や判断に、当たり前のように影を落としている。
誰が人気か。
誰が注目されてるか。
この人は“善”なのか、“悪”なのか。
自分の何が評価されていて、何がされていないのか。
そんな“見えないラベル”を、
私たちは日々、無意識に読み取ろうとしてしまってる。
きっと「評価のない世界」は、不安もある。
何を基準にすればいいか、わからなくなることもあると思う。
でもそのぶん、もっと自由に、“自分の感性”を信じていい世界なのかもしれない。
この映画は★3かもしれない。
この本は、レビューで酷評されていたかもしれない。
それでも私は、それを好きになった。
理由はうまく説明できないけど、好きだった。
そんな感覚を、大事にしていきたい。
評価じゃなく、“感じた”ということそのものを。
The truest things are often immeasurable.
(ほんとうに大切なものは、たいてい測れない)