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「頑張る」がいつも正解じゃないと思った日

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目次

静かな気づきの3行サマリ

  • 頑張っていた時期ほど、自分に厳しくなっていた気がする
  • 少しだけ力を抜いたら、心が落ち着いて、むしろ結果が良くなった
  • 頑張りすぎないことも、ちゃんとした選択肢のひとつだと思えた

はじめに|「いつも頑張っているね」と言われるけれど

「頑張ってるね」と言われることが多かった。 でも、その言葉に嬉しさよりも、少しのプレッシャーを感じるようになったのは、いつからだろう。

頑張ることが当たり前になって、 自分に余白がなくなっていた気がする。

余裕がないときほど、 ピリピリして、些細なことにも反応して、 何かにつけて「まだ足りない」と思っていた。

そうやって無意識に、自分にも、周りにも、 厳しくなっていたのかもしれない。


頑張ると、なぜかうまくいかない日々

目標を立てて、効率的に進めて、成果を出す。
そんなふうに動いていた時期があった。

だけど結果が出ないと、自分を責めるし、 もっと頑張らなきゃと力が入る。

それでもうまくいかない。 そんな日々が続くと、だんだん心が追いつかなくなる。

焦って、無理して、頑張り続けて、 結局、余裕を失っていく。

気づけば、笑う回数も減っていた。


少しサボってみたら、世界が変わった

ある日、ふと予定を詰め込むのをやめてみた。 「これくらいでいいかな」と自分に言ってみた。

それだけで、心にふっと余白ができた。

少しサボってもいい。 頑張りすぎない日があってもいい。

そう思った瞬間、目の前の景色が変わった。 慌てなくなった。焦らなくなった。

むしろ、落ち着いているぶん、
考える力が戻ってきて、結果もうまくいくことが増えた。

「なんだ、そんなに頑張らなくてもよかったんだ」 と、気づいた。

そう思うということは頑張りすぎていた証拠。


頑張るって、なんだろう

「私がやらないと誰もやらない」
「もっと頑張らなきゃ」
「もっとしっかりしなきゃ」

そんなふうに思い続けていた時期があった。

でも今なら、それは心の“危険信号”だったと思う。

そう思っているときほど、周りが見えなくなって、 自分の限界を押し広げてしまう。

誰かのために動いているようで、 実は自分の「ちゃんとしなきゃ」に縛られていた。

そのことに気づいたとき、ようやく力を抜けた気がする。

実は、自分でもどこかでわかっていた。 でも止められなかった。

全部、周りのせいだと思っていたし、 自分が正しいと信じ込んでいた。

それもまた、心の危険信号だったと思う。

「いつも頑張ってるね」と言われるレベルではなく、 誰も近づけないほど独走していた時期があった。

周りなんてどうでもいい、という勢いで、 ただひとりで走り続けていた。

今思えば、その時こそ、いちばん立ち止まる必要があったのかもしれない。

不思議なことに、そういう時に限って結果はガンガン出ていた。
評価もされて、成果も出て、自分でも驚くほど数字がついてきた。

でも、心は置き去りだった。

そして、周りはどんどん離れていった。
誰も近づけないほどのスピードで走っていたから、
孤独にも気づかないまま、自分だけのレースを続けていた。

頑張ることは悪いことじゃない。 でも、「いつも頑張っていないと不安」なのは、少し違う気がする。

頑張ってる自分しか認められない状態では、
どれだけ結果が出ても、きっと満たされない。

だからこそ、頑張る以外の選択肢も持っていたい。 力を抜くこと、流れに任せること、自分を許すこと。

それもまた、自分を大切にする一つのかたちだと思う。


おわりに|がんばらない日にも意味がある

今では、「がんばらない日」を作ることも、 私にとっての大事な習慣のひとつになっている。

がんばらなくても、自分の価値が変わるわけじゃない。 休んでも、力を抜いても、それは怠けじゃない。

ただ、心を整えるための時間。

そんな日があることで、頑張る日とメリハリがついてはっきりしてくる。

がんばらないことも、ちゃんと意味がある。

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