穏やかな毎日を送っているはずなのに、気づけば画面の中で悲鳴をあげている自分がいる。
苦手なはずのホラー映画を、この頃よく観ている。仕事にも人間関係にも大きな不満はない。それなのに、わざわざ怖い思いをしにいく。この記事は、その居心地の悪い一致について考えた、私個人の記録である。
穏やかな日々のはずが、何かが足りなかった
平穏、という言葉は聞こえがいい。波風が立たない毎日。誰とも揉めず、締め切りにも追われすぎず、夜はちゃんと眠れる。手に入れたかったのは、まさにこれのはずだった。
だけど最近、その平穏の中で、じわじわと物足りなさを感じている自分に気づいた。
不満があるわけじゃない。「このままでいいんだろうか」という焦りでもないし、「もっと大きなことを成し遂げたい」という野心でもない。もっと地味で、説明しにくい感覚だった。
何かが、動いていない。
――そう気づいたとき、真っ先に浮かんだのは「刺激が足りないんだ」という説明だった。だから最初は、その足りなさを埋めるために、あえて怖いものに手を伸ばしているのだと思っていた。でも、実際にホラー映画を観ながら考えているうちに、その説明では足りない部分があることに気づき始めた。
足りなかったのは「刺激」ではなく、「振れ幅」だった
刺激が欲しいなら、もっと手軽な方法はいくらでもある。強めのコーヒーを飲むとか、知らない道を歩いてみるとか。でも私が実際に求めていたのは、そういう表面的な目新しさではなかった。
欲しかったのは、感情がちゃんと動く感覚そのものだった。
平穏な毎日というのは、悪いことが起きない代わりに、良いことでちょっと有頂天になることも減っていく。感情の振れ幅そのものが、上下ともに縮んでいく。退屈というのはその状態にかなり近い。何も起きないから退屈なのではなく、何が起きても自分の中の針がほとんど動かないから退屈なのだ。
平穏と退屈は、外から見ると同じ顔をしている。でも中身は違う。平穏は「揺れなくていい」状態で、退屈は「揺れなくなってしまった」状態だ。私が居心地悪く感じていたのは、たぶん後者の方だった。
そう考えると、わざわざ怖いものを選んでいる自分の行動にも説明がつく。人は苦しみそのものを求めているわけではない。ただ、完全に凪いだ状態も、実はそんなに求めていないのかもしれない。
なぜ、苦手なはずのホラーに手を伸ばすのか
正直に言うと、私はホラーというジャンルがそこまで得意ではない。血や驚かしの演出は今でも苦手だ。
それでも、X・パール・マキシーンの三部作は、途中から画面を追う手が止まらなくなった。
単純に「怖い」という感情は、素直に動く。心臓が少し速くなって、画面の端に何か映っていないか目が勝手に探してしまう。でもこの三部作が面白かったのは、その怖さと同時に、まったく別の感情も動いていたことだった。
なぜこの人物はこんな行動を取るのか。この作品と、あの作品はどうつながっているのか。──画面の中で悲鳴をあげながら、頭の別の場所では、点と点をつなぐ作業をしている自分がいた。手のひらで顔を半分覆いながら、指の隙間からはしっかり画面を見ている。怖いはずなのに、目を離したくない。その両立が、一番奇妙で、一番面白かった。
観察するのが好きな人には、たぶんこの感覚がわかると思う。恐怖という単純な感情と、構造を読み解く快さという複雑な感情が、同じ画面の前で同時に立ち上がってくる。感情が一種類しか動かないより、ずっと忙しくて、ずっと生きている感じがした。
――そう考えると、これは現実から離れるための行為というより、むしろ自分の感情がまだちゃんと動くかどうかを確かめる作業に近かったのかもしれない。
感情が乏しくなっているときほど、こういう強制的に感情を引っ張り出してくる作品が必要なのかもしれない、と今は思っている。以前の私なら、わざわざ怖い思いをしにいくなんて非効率だと思っていたはずだ。でも、感情の絶対量が減っている時期には、こういう荒療治のようなものが案外理にかなっているのかもしれない。
こういう作品を配信サービスでまとめて観返せる環境があるのも、正直ありがたい。
平穏を守りながら、ちゃんと感じて生きるということ
ここまで考えて、ひとつはっきりしたことがある。私が欲しかったのは、現実を変えることではなかった。
仕事を辞めたいわけでも、人間関係をリセットしたいわけでも、住む場所を変えたいわけでもない。今の生活の骨格自体には、特に不満がない。ただ、その骨格の中を流れる感情の量が、もう少し欲しかっただけだ。
これは、現実逃避とは少し違う。逃避というのは、今いる場所から離れたいという欲求のはずだ。でも私の場合、離れたい場所なんて特にない。ただ、感情という一つの機能だけを、意図的に動かしにいっている。それなら「逃げている」というより、「点検している」の方が近い気がする。
人は苦しみを避けたいと思う一方で、完全に無風の状態も、実はそこまで求めていない。矛盾しているようだけど、たぶんこれは同時に成り立つ。凪いだ海の上で、それでも少し波が立ってほしいと願うようなものだ。
平穏な生活を保ちながら、感情だけを定期的に揺らしにいく。そんな器用なことができるなら、それでいいのかもしれない。
静かな気づきの3行サマリ
- 平穏な日々の中で感じていた物足りなさは、刺激ではなく感情の振れ幅の縮小だった。
- 苦手なホラー映画に向かうのは現実逃避ではなく、感情がまだ動くかを確かめる行為に近い。
- 人は苦しみも、完全な無風状態も、どちらも本当は求めていない。
おわりに
平穏を手に入れたくて、ずっとそれを目指してきたはずだった。それなのに、いざ手に入ると、今度は少しの揺れを欲しがっている。
人間というのは、案外面倒にできている。
今夜もたぶん、私はまた怖い映画を選ぶ。画面の光だけが部屋を照らして、心臓の音が少しだけ速くなる。それだけでいい夜もある。

