恋人や夫婦なのに、一人になりたいと言い出せない。言えたとしても、理由を添えなければいけない気がする。そんな窮屈さを、どこかで感じたことはないだろうか。
これは、ある話を聞いてから私の中に残り続けている問いを、自分のためにほどいておくための文章だ。
一人になるのに、許可が必要なのだろうか
カフェの奥の席で、隣のテーブルの話し声を、意味を持たない音として聞き流している。こういう時間を、私はほぼ毎日どこかで確保している。一人になれる部屋か、こうしたカフェで。
ある人間関係の話を聞いた。一人で静かに過ごしたいのに、それを相手に言い出せないのだという。
聞きながら、胸のどこかが重くなった。わざわざ言い出さなければいけないこと自体がしんどい。そのうえ相手の許可がいるとなれば、なおさらだ。
私は一人になりたいとき、たいていスッとその場を離れる。宣言も説明もしない。ただ席を立ち、別の部屋に移る。
そこで、ふと気づいた。これまで、離れた私を追いかけてきた人も、ずっとそばにいようとした人もいなかった。私が一人の時間を当たり前のように持てていたのは、私がそういう性格だったからというより、周りの人たちがそれを問題にしなかったからなのかもしれない。
自由は、自分ひとりで持っているものだと思っていた。けれど実際には、私が席を立つたびに、誰かがそれを気にも留めずにいてくれた。その何でもなさのおかげで、私は一度も説明をせずに済んでいたのだ。
一緒にいることは、愛情の証明になるのか
恋人や夫婦になると、一緒に過ごすことが当然のように期待される場面がある。同じ部屋で、同じ時間を。
ただ、同じ「そばにいる」でも、中身は一つではないように思う。一緒にいたいという気持ちは、相手に向かって開かれている。一緒にいなければ不安になる気持ちは、自分の内側の揺れを鎮めるためにある。そして一緒にいるべきだという思い込みは、気持ちより先に形を求めている。
外から見れば同じ光景でも、この三つは手触りがまるで違う。過ごした時間の長さで愛情を測ろうとすると、その違いが見えなくなってしまう。
一人の時間は、相手から離れる時間とは限らない
私にとって一人の時間は、特別な儀式ではない。本を読み、映画を観て、何かをつくる。日常の自然な一部だ。
誰かといると、どんなにくつろいでいても、何かしらの影響を受けている。それは相手が家族であっても変わらない。だから私の場合、本当のリラックスは一人のときにしか訪れない。一人の時間は、私にとって自分自身と過ごす時間なのだと思う。
これはあくまで私の実感で、誰かと同じ部屋にいるときにいちばんほどける人がいることも知っている。ただ少なくとも私にとって、そこに相手を拒む意味は含まれていない。
「一人になりたい」は「あなたといたくない」と同じ言葉ではないのに、受け取る側の心のなかで、ときどき翻訳が起きてしまう。そして翻訳が起きたところから、一人になることが「お願い」に変わっていくのだと思う。
前者は報告で、後者は申請だ
一緒に暮らしていれば、予定を伝え合うことは必要だ。食事をどうするか、何時ごろ戻るか。相手を思って相談することもある。それは配慮であって、窮屈さとは違う。
けれど、「今夜は一人で過ごすね」と伝えることと、「一人になってもいい?」と尋ねることは、似ているようでまったく違う。前者は報告で、後者は申請だ。
違いは、言葉の丁寧さではなく、決める人がどこにいるかにある。報告なら、決めたのは自分で、相手はそれを知るだけだ。申請になると、決める権利がいつの間にか相手の手に渡っている。
もちろん、たまたま「いい?」と聞いたからといって、それだけで関係が不平等になるわけではない。気になるのは、聞かなければ動けない状態が続くことのほうだ。
なぜ親しくなるほど、相手の時間に対して自分が決定権を持っているかのように感じてしまうのだろう。もしかすると、近くにいる時間が長くなるにつれて、相手の時間が二人の共有物のように見えてくるのかもしれない。共有物なら、使い方に口を出してもいい。そう思えてしまうのかもしれない。
でも、相手の時間は、最初から相手のものだ。私はそこに、許可を出す立場があるとは思っていなかった。
それに、ある夜の一杯の水のことを思い出すと、選べることの意味は、一人になるときだけの話ではない気がしてくる。
「いやだよ」と言えたから、動けた
以前、もう寝るだけという状態でベッドでくつろいでいたとき、そばにいた人から頼まれたことがある。普段は自分で水を持ってくる人だったけれど、その日は忘れたらしい。
「水を持ってきて欲しい、お願い!」
「いやだよ、あと寝るだけなんだから、自分で行きなよ!」
そう返すと、相手はこう言った。
「犬を一匹持っていっていいから!お願い!」
なんで犬も寝てるのに、かわいそう、と笑いながら、結局私はしょうがないなと犬を抱えて、水を取りに行った。
いまでも覚えているのは、あの「犬を一匹」というユーモアに、なんとなく動かされたからだ。毎回ではなく、たまにだから軽やかで、言葉遊びとして楽しめる。お願いをするのにも、センスがいるのだと思う。私のほうも、いろいろお願いしてきたのでお互いさまだ。
ただ、このエピソードでいちばん大事なのは、たぶん笑いの部分ではない。「いやだよ」と普通に言えたこと。言っても空気が少しも悪くならなかったこと。そのうえで、私が自分の意思で動いたこと。
もし断れない関係だったら、同じ一杯の水でも、きっと我慢の味がしていた。やらされたのか、選んだのか。外から見れば同じ「水を取りに行った」でも、その違いは大きい。
スッと部屋を離れることと、犬を抱えてキッチンへ行くこと。方向は正反対なのに、私の中では同じ場所から来ている。どちらも、誰かに決められたのではなく、自分で選んでいる。離れることを選べるからこそ、そばにいることも、誰かのために動くことも、自分で選べるのだと思う。
一人にしておける人には、何があるのだろう
相手が同じ部屋から離れていったら、私はたいていそのままにしておく。そこにいないのは、そこにいない理由があるからだ。用事があれば声をかけるけれど、それもほとんど無意識で、「一人になりたいのかな」とわざわざ考えることさえない。
書いてみて思うのは、これは相手の自由を尊重しようと努力している状態とは、少し違うということだ。尊重しようとするには、まず「止めることもできる」という前提がいる。私にはその前提が、最初からなかった。相手が部屋を出ていくことは、私が何かを判断する場面ではなかったのだ。
たぶんそこには、相手とは別に、自分にもやりたいことがあるという事情も関係している。相手がいなくなった部屋で、私は私で本を開くか、何かをつくり始める。だから相手の不在が、そのまま自分の空白になることがない。
それが正しい距離だとは思わない。ただ、私がこれまで説明なしに席を立てたのも、きっと周りの誰かが、同じように何も判断しないでいてくれたからなのだと思う。
一人にしておけることも、愛情だと思う
相手が一人になることに、そもそも私の許可は必要ない。それを我慢して認めるのでも、寛大さで与えるのでもなく、最初から相手のものとしてそこにある。
そう思えている関係のなかでは、一緒にいる時間も、少し違って見えてくる。いつでも離れられるのに、いまここにいる。夜中に水を頼まれて、断れるのに、笑いながら取りに行く。
一人にしておけること。それも、私にとっては愛情のかたちの一つなのだと思う。
静かな気づきの3行サマリ
私が一人の時間を当たり前に持てたのは、周りがそれを問題にしなかったからかもしれない。
報告と申請の違いは、相手の時間を決める人がどこにいるかの違いだ。
離れることを選べるからこそ、そばにいることも自分で選べる。
今夜の部屋で
この文章を書き終えたら、キッチンで水を一杯汲んで、自分の部屋に移ろうと思う。
誰に断るでもなく、ドアを閉める。
机の端に置いたグラスは、誰かに頼まれた一杯ではなく、自分のために汲んだ一杯だ。それがゆっくりぬるくなっていくのを、気にする人は、ここにはいない。

