「付き合う人は選んだ方がいい」と言うと、少し冷たく聞こえる。人を損得で品定めしているみたいに聞こえるからかもしれない。
だけど最近、恋愛でも仕事でも、誰と一緒にいるかは自分が思っている以上に自分を変えるものなんじゃないかと感じることが増えた。うまく言葉にできなかったこの感覚を、一度ここでほどいてみたい。
たとえば、誰かと向き合って話している最中に、自分の肩に力が入っていることに、あとになって気づく瞬間がある。会話の内容そのものは悪くないのに、体だけが先に緊張していた、というような。逆に、話し終えたあとで「あ、今、肩が下りている」と気づくこともある。同じ「人と話す」という行為なのに、相手によって体の反応がまるで違う。
一緒にいる人が、少しずつ「普通」を変えていく
人は、一緒にいる時間が長い相手の言葉づかいや反応の仕方を、知らないうちに自分の基準にしてしまう。何を面白いと感じるか、どこまで本音を言っていいか、笑っていい場面かどうかさえ、相手との関係の中でだんだん形づくられていく。
だからこそ、「誰と付き合うか」は、単に好みの問題ではなく、自分がどんな環境の中で生きるかを選ぶことでもある――そんなふうに考えるようになった。まずは恋愛の場面から、思い出してみたい。
恋愛は、「好き」だけでは測れない
以前、誰かと一緒にいて、自分がふと笑った瞬間に「そこは笑うところじゃない、なぜ笑うんだ」と聞かれたことがある。しかもそのあと、同じような場面で自分がまた笑うかどうかを、静かに試されている感覚があった。悪意があったわけではないと思う。ただ、そこにあったのは、コントロールに近いものだった。自分が自然に反応しただけのことが、いちいち採点される。
似たようなことは、共感の場面でも起きた。何を言っても「わかるよ」「そうだよね」と返してくれる人がいる。ありがたいはずなのに、どこに、なぜ共感しているのかが見えてこないと、だんだん不安になってくる。ただ合わせられているだけかもしれない、という感覚が拭えない。
人は見たいようにしか物事を見ない――そのときそう思った。相手が見ているのは、目の前の自分ではなく、相手の中にすでにある「こうあってほしい自分」なのかもしれない、と。
一方で、まったく違う相手もいた。着飾っていない、素のままの自分にすでに惚れてくれている、という前提がまずあった。だから、たとえば汚い言葉を使ってしまったときも、「こう言ったほうが可愛いよ」と、責めるでもなく、自然に直してくれる。否定ではなく、提案として届く。その彼は、人からとても好かれるタイプの人で、彼が普段さりげなくやっていることには、自分にとって良い影響しかなかった。この人といると、もう少し感じのいい人間になれる気がした。
好きという気持ちの強さだけでは、この二つの違いを説明できない。同じくらい好きでも、一緒にいて消耗する関係と、一緒にいて少しだけ機嫌のいい自分になれる関係がある。そしてこの構造は、どうやら恋愛だけのものではなかった。
仕事にも、同じ構造がある
何をやっても評価されないと感じていた時期がある。むしろ頑張れば頑張るほど、マイナスに転じていくような感覚があった。仕事の内容自体が嫌いだったわけではない。ただ、その場所にいるだけで、自分の努力の意味が分からなくなっていった。
逆に、自由にやらせてもらえる環境もあった。小さな挑戦であっても、それ自体を面白がってもらえる。最初から100点を求められるのではなく、100点に近づいていくプロセスごと見てもらえる。そういう場所では、失敗も含めて、自分を出すことが怖くなくなる。
給料や仕事内容が同じくらいでも、誰と働くかによって疲れ方がまったく違う。それも、スペックでは説明のつかない部分だと思う。恋愛でも仕事でも、繰り返し起きていたのは、たぶん同じことだった。
見ているのは「相手」じゃなく、「その人といる自分」
ここまでの話を並べてみて、気づいたことがある。大事なのは「この人はいい人か、悪い人か」という判定ではなく、「この人といるとき、自分はどんな人になっているか」という視点なのかもしれない。
いつも緊張している。自己否定が増える。機嫌をうかがってしまう。言いたいことが言えなくなる――そういう自分になる相手もいれば、自然に話せる、穏やかでいられる、自分の力を出せる、少し前向きになれる――そういう自分になる相手もいる。
同じ自分のはずなのに、隣にいる人によって、こんなにも違う自分が立ち上がってくる。ただ、ここで一度立ち止まって、考えたいことがある。
でも、選んでいるのは自分だけじゃない
自分だけが人を選ぶ側にいるわけではない、ということだ。
理想の恋人、理想の友人、理想の同僚、理想の職場。相手に求める条件は、いくらでも挙げられる。安心できる人がいい。誠実な人がいい。話しやすい人と働きたい。信頼できる人と仕事をしたい――どれも、そう思う気持ちに嘘はない。
だとしたら、自分はどうなのだろう。安心できる人がいいと思いながら、忙しいときや余裕がないとき、自分は誰かを緊張させる側になっていなかっただろうか。話しやすい人と働きたいと思いながら、自分は話しかけやすい人でいられていただろうか。
問い直してみても、答えはすぐには出ない。ただ、自分もまた誰かにとっての環境の一部なのだと、ふと気づく。自分と話しているとき、相手の肩は強張っているのだろうか。それとも、少し力が抜けているのだろうか。
選ばれるために、自分を消す必要はない
ただ、これは他人に好かれるために自分を変える、という話ではない。媚びることでも、無理に合わせることでも、自分をすり減らして相手の理想に近づくことでもない。
自分の価値観や境界線は、そのまま持っていていい。そのうえで、「自分が一緒にいたいと思う人から見て、自分もまた一緒にいたいと思われる人間でいられているか」を、時々自分に問い直すだけのことだと思う。
「この人は私にとっていい人か」だけではなく、「この人といるとき、私はどんな自分になっているだろう」。そしてもうひとつ、「この人から見たとき、私はまた会いたい、一緒にいたい、一緒に働きたいと思ってもらえる人間だろうか」。この三つの問いは、たぶんセットで持っていたほうがいい。
人間関係は、スペックだけでは決まらない
誰かと合わないことは、必ずしもどちらかが悪いという意味ではない。ただ、その組み合わせの中では、自分がうまく呼吸できないことがある。距離を取ることは、相手を否定することとは違う。すべての人と深く付き合う必要はなく、どこまで近づくかは、自分で選んでいい。ただし、同じ自由が相手にもある。
人間関係は、一方が選び続けるものではなく、お互いが選び合うことで続いていくものなのだと思う。
いや、それだけでもない気がする。選ぶ前に、たぶんお互いに変え合っている。誰と一緒にいるかで、自分の状態は変わる。そしておそらく、それは一方通行ではない。自分と一緒にいるとき、相手の肩もまた、上がったり下がったりしているのだろう。自分の言葉や反応ひとつが、目の前の人の呼吸のしやすさを、少しだけ左右している。
静かな気づき3行サマリ
・付き合う人によって、自分の状態は少しずつ変わる。
・そして自分もまた、誰かの状態を変えている。
・誰といるとき肩が下りるのか、自分といる誰かは、呼吸できているのか。
まだ話したかった、その続き
その日、電話を切るタイミングを、少しだけ引き延ばした。まだ話したいことが残っている感覚のまま、「じゃあ、また」と言って切った。
画面が暗くなったあとの部屋は、いつもより静かだった。もっと話していたかったのに、それを名残惜しいと感じられたこと自体が、たぶん答えだったのだと思う。無理に続けなくても、また次があると分かっている安心感。
飲みかけのお茶はすっかり冷めていたけれど、それを一口飲んで、また今度話そう、と思えた。その「また」を思えるかどうかが、自分にとっての基準なのかもしれない。

