自分に合う人って、どんな人なんだろう。
「優しい人」「誠実な人」「価値観が合う人」。そう答えることはできても、それで何かがわかった気はしない。そんなふうに感じたことはありませんか。
うまく言葉にならなかったこの問いを、自分のために少しずつほどいてみたい。
抽象画の前で、ふと思ったこと
部屋に、抽象画が一枚ある。
何が描かれているのかと聞かれても、うまく答えられない。決まった正解のある絵ではなくて、そのときの自分にどう見えるか、という種類の絵だからだ。同じ色の重なりが、ある夜には穏やかに見えて、別の夜には少しざわついて見える。変わっているのは絵ではなく、見ている私のほうなのだと思う。
その夜も、特に理由はなく、その絵を眺めていた。
そしてふと、思った。自分に合う人って、どんな人なんだろう。
恋愛について考えるとき、人は相手に求める条件を挙げがちだ。優しい人、誠実な人、価値観が合う人。どれも間違ってはいない。でも、その条件をいくら並べても、自分が実際にどんな人といて楽しいのかは、あまり見えてこない。
条件というのは、絵の横に添えられた題名に少し似ている。題名を読んでも、その絵が今夜の自分にどう見えるかまではわからない。
だから今回は、相手に何を求めるかを考える前に、見ている側、つまり自分のほうを観察してみることにした。
まずは、自分の中にある、ちょっと矛盾した性質から。
刺激が好きなのに、静けさも必要らしい
HSS型HSPという言葉がある。
HSPは「とても敏感な人」を指す概念で、医学的な診断名ではない。そこに、刺激や新しい体験を求める気質(HSS)が重なったタイプを、HSS型HSPと呼ぶことがある。科学的に確立された性格分類というより、自分を理解するための一つの言葉として、私はこれを使っている。
この言葉を知ったとき、少しほっとした。自分の中の、噛み合わないように見える部分に、名前がついた気がしたからだ。
新しいものや、まだ知らない世界には素直に惹かれる。面白い話や、予想外の発想に出会うと、頭のどこかがぱっと明るくなる。それなのに、人とずっと一緒にいたいわけではない。刺激を楽しんだあとには、静かな時間がどうしても必要になる。
しかも、その静かな時間は「回復のための我慢」ではない。一人で過ごすこと自体が、ちゃんと楽しい。
外に向かって開きたい私と、内側に戻りたい私。どちらかが本当の自分で、どちらかが仮の姿、というわけでもなさそうだ。
では、この二つを持った人間が、誰かと一緒にいるとき、何が起きているのか。それを考えるために、もう一つの手がかりを持ち出してみる。
INTJという診断結果は、答えではなく手がかり
MBTIの診断では、INTJ-Tという結果が出ている。
ただ、性格診断が自分の本質を決めるとは思っていない。MBTIの科学的な妥当性には限界があることも知られているし、四つのアルファベットで人間を分類しきれるとも思わない。
それでも、結果を眺めながら自分の行動を振り返ってみると、思い当たることはある。
たとえば会話では、気持ちを共有することと同じくらい、考えを深めていくことに楽しさを感じる。相手の言葉を受け取ったあと、つい「どうしてそう思ったんだろう」と、その背景や仕組みのほうに意識が向く。あるいは、自分の時間の使い方には、わりと頑固だ。
診断名が私を説明しているのではなく、診断名をきっかけに、私が自分の癖を見つけている。そのくらいの距離感が、ちょうどいい気がしている。
そして、この「考えを深めたい」という癖は、誰と話すと楽しいか、という問いにそのままつながっていく。
似ている人が、合うとは限らない
自分と性格が似ている人なら、きっと相性がいいはず。そう考えるのは自然なことだと思う。
考え方が近い人と話すと、たしかに安心する。説明しなくても伝わるし、話が噛み合わなくて疲れることも少ない。
でも、正直に言うと、自分の考えられる範囲内の会話は、やっぱり面白くない。
相手の返事が、だいたい予想どおりの場所に着地する。それは心地よさでもあるけれど、私の中の好奇心のほうは、少し退屈そうにしている。
反対に、予想外の返しや、まったく違う角度からの視点に出会うと、急に会話が立体的になる。自分一人では絶対にたどり着けなかった場所に、ひょいと連れていかれる感じ。私が「この人と話すのは面白い」と感じるのは、たいていそういうときだ。
とはいえ、「だから正反対の人が合う」という話にしたいわけでもない。違っていれば誰でもいい、というわけではないことも、経験上なんとなくわかっている。
似ていることがくれるのは安心で、違うことがくれるのは驚き。じゃあ、その驚きが心地よいときと、ただ疲れるだけのときは、何が違うのだろう。
面白い人と、振り回される人は違う
昔付き合っていた人と、買い物に出かけようとしたときのことだ。
買ったものを入れるからと、彼がトランクを開けた。ところが中は物でぎっしりで、空いている場所がない。彼はそれを眺めて、「覚えてないくらい前の物で溢れてる」と言った。
そして、もうそれくらい前の物なら要らないな、と、中身を確かめもせずにバンバン捨て始めた。
その中には、クリーニングから戻ってきたばかりのスーツもあった。
本当に捨てていいのかよ。
心の中で思わずツッコんだ。でも彼の手は止まらない。トランクはみるみるうちに空になっていく。
そして最後に、空っぽになったトランクを前に、彼は言った。
「よし! これでOKだ。行こう!」
あのとき私は、呆れるより先に、惚れ直していた。迷いのない決断力と、それをすぐ形にしてしまう行動力に。
冷静に考えれば、なかなか予測不能な人だ。隣で見ていてハラハラもした。それなのに、不思議と嫌な疲れは残らなかった。
一方で、一緒にいると疲れてしまう人もいる。
思い返してみると、それは私を振り回す人ではなかった。
疲れるのは、相手が「自分で自分に振り回されている」ときだった。
たとえば、自分の意思ではなく、人の言っていることを常に正解として動いている人。あるいは、自分しか見えなくなるくらい、論理の届かない場所へ突っ走ってしまう人。
方向はまったく逆なのに、この二つはどこか似ている。どちらも、その人自身が舵を握っていないのだ。誰かの正解に引っぱられているか、自分の勢いに引きずられているか。その揺れを隣で見ているとき、私はじわじわと消耗していく。
トランクの彼は、突拍子もなかった。でもあの「行こう!」は、誰の正解でもなく、彼自身が決めた一言だった。
予測できるかどうかは、たぶん本質ではない。私にとって大事なのは、相手が自分の人生の舵を、自分の手で握っているかどうかなのかもしれない。
発想が自由であることと、行動に責任を持たないこと。自分の意思を持っていることと、相手の意思を無視すること。外から見ると似ているこの二組が、実は全然違うものだという話は、もう少し先の回で、ゆっくり考えてみたい。
必要とされることが、幸せとは限らない
「あなたがいなければ生きていけない」
そう言われる関係は、ドラマの中ではとてもロマンチックに見える。でも私が惹かれるのは、どちらかというと「あなたがいなくても自分の人生を生きられる。それでも一緒にいたい」という関係のほうだ。
ただ、誰かに頼られることが嫌なのかと聞かれたら、そう簡単には答えられない。
正直なところ、相手による。
その人との間にどれだけの信頼があるのか。そして、そのときの私に、誰かを支えられるだけのキャパがあるのか。
しかも、そのキャパは固定されたものではない。余裕のある日なら自然に差し出せる手が、別の日には自分を支えるだけで精一杯だったりする。抽象画の見え方が夜ごとに違うように、誰かを受け止められる余白も、日によって形を変える。
誰にでも弱る時期はある。弱さを見せることと、相手に自分の人生ごと背負わせることは、きっと別のことだ。
必要とされることと、自由に選ばれること。この二つの違いも、この連載のどこかで、もう一度立ち止まって考えることになると思う。
ここまで書いてきて、ようやく最初の問いに戻れそうな気がしている。
結局、私はどんな人といると楽しいのだろう
一緒にいて楽な人のことを考えていたら、ある感覚に行き当たった。
良い意味で、相手のことを考えなくていい人。
食事をしているとき。テレビを見ながら、思いついたことをぽつりと話す。相手はそれに反応してもいいし、反応しなくてもいい。返事がなくても気まずくならないし、私も返事を待っていない。
これを書き出してみて、少し意外だった。私が求めている「楽しい」は、刺激的で笑いが絶えない時間だけではなかったらしい。
静かに同じ空間にいること。面白い会話に夢中になること。それぞれ別のことをしていること。そのどれもが、私にとっての「楽しい」に含まれている。
トランクを空っぽにした人と、テレビの前で黙っていられる人。一見まったく別のタイプに見える。でも、もしかすると根っこは同じなのかもしれない。どちらも、自分の舵を自分で握っている。だから私は、相手の機嫌や迷いを先回りして操縦しなくていい。
安心できる人を求めているのか、面白い人を求めているのか。この記事の最初に置いた問いに、まだはっきりした答えは出ていない。ただ、私にとっての安心は「予測できること」ではないのかもしれない、という気はしている。予想外のことが起きても、相手がその人自身でいてくれるなら、私は意外と落ち着いていられる。
これを理想の恋人の条件として並べるつもりはない。条件に合う誰かを探すより、自分がどんな関係のなかで自然に笑っているのかを知るほうが、今の私には面白い。
答えを決めるのではなく、自分を知るところから
考えてみると、自分に合う人というのは、性格診断の組み合わせや条件だけでは決められないのかもしれない。
むしろ、自分がどんなときに楽しくて、どんなときに疲れて、どんな関係なら自然でいられるのか。それを知ることから始まるのではないか。
自分の中には、刺激を求める私と、静けさに戻りたい私がいる。その矛盾は、解消しなくてもいいのだと思う。どちらも、ちゃんと私の一部だから。
部屋に絵を一枚飾るなら、題名や作者よりも、見る日によって違う顔を見せてくれるものがいい。私にとっての抽象画は、そういう存在だ。
今夜の小さな気づき
面白い人とは、私の考えられる範囲の外から話しかけてくる人らしい。 疲れるのは振り回されるときではなく、相手が自分に振り回されているのを見ているときだった。 自分に合う人を知る前に、まず今の自分に何がどう見えているかを知りたい。
もう一度、絵の前で
ここまで書いて、もう一度あの抽象画の前に立った。
最初に眺めていたときと、何かが変わったわけではない。色も形も、同じ場所にある。ただ、今夜の私には、さっきよりも少しだけ、色と色の境目がはっきり見える気がした。
気のせいかもしれない。明日にはまた、違う絵に見えるのだろう。
部屋の明かりを消す前に、もう一度だけ振り返る。暗がりの中で、絵の輪郭がゆっくり溶けていった。

