大人になって、「類は友を呼ぶ」の意味が少し変わった

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最近、「類は友を呼ぶ」という言葉を、ふと思い出すことが増えた。

昔からある言葉だけど、なんだか今の自分にしっくりくる。ただ、若い頃に思っていた“類友”と、今感じている“類友”は、少し違う気がしている。

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長く続いていた友人との、静かな変化

学生の頃からずっと仲良しだった友人がいた。毎日のように連絡を取り合って、なんでも話していた。

でも、いつからか、面白いことがあってもすぐには送らなくなった。前なら真っ先に共有していたはずのことを、なぜか「まあ、今度会ったときでいいか」と思うようになっていた。返信が少し遅くなっても、追いかけて聞くこともしなくなった。

気づけば、もう何ヶ月もやり取りをしていない。喧嘩をしたわけでも、何かがあったわけでもない。ただ、送りたいと思うことが、少しずつ減っていっただけだった。

前は「関係を続けること」にこだわっていた。既読がついたら返さなきゃ、とか、しばらく話してないから連絡しなきゃ、とか。でも今は、「自然に続いていること」の方が大事なんだと思うようになった。無理に距離を保とうとしなくても、それでいいような気がしている。

「わかる」と言われるほど、なぜか心もとなくなる

「わかる、それ私もそう思った」 「同じこと考えてたよ」

そう言ってくれる人と話していて、ふと違和感を覚えたことがある。

その言葉が、本当の共感からというより、気を遣って合わせてくれているんだろうな、となんとなく分かってしまう瞬間があった。

悪いことじゃないと思う。むしろ、やさしさだと思う。でも、それが続くと、自分の言葉がふわっと宙に浮いていくような感覚になる。通じ合っているようで、どこかすれ違っている感じ。

「わかる」って言葉より、 「わからないけど、ちゃんと聞きたい」 って言ってくれる方が、わたしはずっと安心する。

似ているかどうかより、向き合い方が似ているのかもしれない

昔は、同じものが好きで、同じことを考える人が“気が合う人”なんだと思っていた。趣味が同じ、感覚が同じ、意見が同じ――そういう一致に、安心を感じていた気がする。

でも今、安心するのは少し違う場面だった。意見が一致したときより、「私はそう思わないけど、なんでそう思ったの?」と聞いてくれたときの方が、ちゃんと話を聞いてもらえた、という感覚が残る。

だとしたら、“類は友を呼ぶ”というのは、考えていることが似ている、という意味ではないのかもしれない。似ているのは、他人の話にどう向き合うか、という部分の方なのかもしれない。同意することが得意な人と、違いをそのまま受け取ろうとする人。自分が安心するのは、後者の方だった。

わたしにとっての“類友”

「それ、よくわかる」と言われるのも嬉しい。でも、「なんだか不思議だけど、おもしろいね」って言われる方が、なぜか肩の力が抜ける。違いがあっても、会話がそのまま続いていく。わたしにとっての“類友”は、たぶんそういう関係のことだと思う。

静かな気づき

・同意してくれる人より、違いを持ちながら話を聞こうとしてくれる人に安心する。
・関係が変わったのは、喧嘩したからではなく、送りたいことが少しずつ減っていっただけだった。
・類は友を呼ぶというのは、考え方が似ていることより、人との向き合い方が似ていることなのかもしれない。

「なんでそう思ったの?」と聞かれたこと

先日、ちょっとした話をしていて、こう返されたことがあった。

「私はそれとは少し違うかな。でも、どうしてそう思ったの?」

意見は、まったく一致していなかった。なのに、ちゃんと話を聞いてもらえた、という感覚だけが残った。

その日は、それだけで十分だった。

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