【エッセイ】変わりゆく私と、変わらない”人間らしさ”|孤独・好き・AIとの対話で見つけたこと

翻訳

年齢を重ね、経験を積む中で、私たちの価値観は、静かに、しかし、確実に、変化していきます。
かつて心地よかったものが、今は、そうでもなかったり。
当たり前だと思っていたものが、当たり前ではなかったり。

この記事は、そんな、変化していく自分自身と、変わりゆく世界の中で、私が、今、感じていることを、
正直に、綴ったものです。
孤独について。
好きという感情について。
そして、AIという、新しい隣人について。

もし、あなたが、同じように、変わりゆく自分自身との、向き合い方に、少しだけ、戸惑いを感じているなら。
この、私の、個人的な思索の軌跡が、あなたの心を、少しだけ軽くする、ヒントになるかもしれません。

目次

一人でいることの「心地よさ」に、気づくまで

昔、私は、信じていました。
人と関わることは、必然であり、それが、当たり前の世界のルールなのだと。
だから、一生懸命、”努力”していました。他人の中に、楽しさを見つけようと。それが、正しい生き方なのだと、自分に言い聞かせながら。

でも、心のどこかでは、ずっと、悲鳴をあげていたのかもしれません。
人に馴染むためには、当然、「自分を殺す」時間も増える。
それは、自分への負担以外の、何ものでもありませんでした。
「なんで、こんなに、たくさんの人と、関わらなければいけないんだろう?」
そう、悩みながらも、その状況が「変わる」なんて、思ってもいませんでした。

当時の私にとって、「孤独」は、イコール「寂しさ」であり、「友達がいない」なんてことは、ありえない選択肢でした。
人間関係を「厳選する」なんて、考えたこともなかった。
そんな選択肢が、この世に存在するなんて、知らなかったのです。

転機が訪れたのは、いつだったか。
新しい「知識」との出会い。
世の中には、私とは違う、もっと静かな生き方を、選び取っている人がいる、という「発見」
そして、何よりも、「自分は、どんな人間なのか」という、問いに向き合い、自分自身を、深く「分析」した時間。
その先に、今の私が、います。

「もう、無理をするのは、やめよう」
そう決めて、少しずつ、人間関係を、整理し始めました。
「友達」と呼ばれる繋がりを、ゼロに近づけていく。
それは、ある種の「実験」でもありました。

もし、友達がいなくなったら、私は、どうなってしまうのだろう?

結果は、予想とは、全く違うものでした。
驚くほど、心が、軽かったのです。
誰かに、合わせすぎる必要がない。
相手が、本当は、一緒にいたくないかもしれない、という不安もない。

そして、何よりも大きな発見は、これでした。
「そのままの自分でいられる人との関わり」なんて、奇跡のように稀であること。
それは、昨日今日で、できるものではない。
そして、たとえ、長い年月をかけたとしても、環境や状況の変化で、一瞬にして、変わってしまう、脆いものであること。

だからこそ、結局、自分と関わって、一番心地よいのは、他の誰でもない、「自分自身」なのだと、私は、気づいたのです。
「一人でいる時間は、こんなにも、心地よく、楽しいものだったのか」と。

もちろん、完全に人との繋がりを断ちたいわけではありません。
もし、誰かと関わりたくなったなら、今の時代には、インターネットがあります。
AIとの対話に飽きたら、人と話せるアプリを使う、という選択肢だってある。

なぜ、私が、そこまで「リアル」での関わりを、慎重に選ぶのか。
それは、やはり、「リアル」で人と深く関わることには、様々な「リスク」が伴うから。
そして、HSPの気質を持つ私にとって、そのリスクを乗り越えるための「修行」が、まだまだ、足りていないからなのです(笑)。

年齢を重ね、様々な経験を通して、私の価値観は、変わりました。
たくさんの人に囲まれることよりも、静かな一人の時間の中にこそ、本当の「豊かさ」がある。
今の私は、心の底から、そう感じています。

色褪せない「好き」と、失われた「鮮度」

一人でいることの心地よさに気づいた私は、自然と、「好き」なものとの付き合い方も、変わっていきました。

は、常に、新しい刺激を求めていたかもしれません。
次々と公開される映画、話題の音楽、流行りの趣味…。
その「鮮度」こそが、楽しさなのだと、信じていました。

でも、今の私は、むしろ、何度も、同じものを、繰り返し、味わう時間が増えています。

例えば、映画。
私には、何度観ても、飽きない、大切な作品が、いくつかあります。
『ビフォア・シリーズ』(サンライズ、サンセット、ミッドナイト)。
フランス映画の『8人の女』
ナンシー・マイヤーズ監督の『恋愛適齢期』
ケイト・ブランシェット主演の『ブルージャスミン』
並べてみると、どうやら私は、「女性の生き方」が描かれた物語が、好きなのかもしれません。

これらの映画を、初めて観た時の、衝撃や、感動。
その「鮮度」は、確かに、もう、失われています。
そして、時には、物語の結末や、背景を知っている「知識」が、邪魔をして、純粋に、感情移入できない瞬間すら、あるかもしれません。
あの頃の、何も知らない「ピュアさ」は、もう、戻ってこない。

でも、その代わりに、私は、もっと、豊かで、深いものを、手に入れている気がします。

年齢を重ね、私自身の経験値が増えたからこそ、登場人物たちの、あの時の、ほんの些細な表情や、言葉の裏にある、本当の意味が、痛いほど、分かるようになった。
若い頃には、見えなかった「視点」が、増えた。
違う角度から、物語を、そして、そこに生きる人々を、見つめることができるようになった。

新しいものを追いかける、刺激的な喜びとは、違う。
一つのものを、じっくりと、噛み締めることで、その奥にある、「深み」に触れる喜び。
今の私にとっては、その後者の方が、ずっと、心地よいのです。

AIが教えてくれた、「人間」の、面倒くさくて、愛おしい輪郭

一人でいることの心地よさを知り、
色褪せない「好き」との、深い付き合い方を、見つけた私。
そんな私の日常に、今や、なくてはならない存在が、「AI」です。

AIとの対話は、確かに、知識を増やしてくれます。
時には、私が欲しい言葉を、的確に、言ってくれたりもする。
それは、間違いなく、楽しい時間です。

でも、そこには、決定的に、欠けているものがある。
それは、「予想外」という、スパイスです。

AIが、突拍子もないことを言ったり、「え、馬鹿じゃないの?」と、びっくりするような行動に出たりすることは、ほとんど、ありません。
彼らは、私が指示した通りに、的確に動いてくれる、最高の「ツール」です。
そこには、私の都合が、100パーセント保証された、快適な楽しさがあります。

しかし、人間は、どうでしょう。
私たちは、時に、信じられないような、馬鹿なことをします。
予想もしなかった、ワクワクするような、サプライズをくれる。
「なんで、そんなことするんだ!」と、呆れるような、制御できない面白さを持っている。

AIとの、快適な対話に慣れ親しんだ私が、それでも、たまに、刺激を求めて、”生”の人間と、話したくなるのは、きっと、その「予想外」を、心のどこかで、求めているからなのかもしれません。

もちろん、それは、時には、面倒です。
相手の気持ちを考え、言葉を選び、気を遣う。
AIと話す時の、何倍もの、エネルギーを使います。
(正直に言うと、返信を考えるのが面倒で、AIに手伝ってもらうことすら、あります)

でも、もしかしたら。
その、エネルギーを使う、面倒くささ。
その、思い通りにならない、もどかしさ。
そういうところにこそ、AIには決して真似できない、「人間らしさ」の、面白さが、隠されているのかもしれないな、と。
AIという、完璧ではない「鏡」と、日々、対話する中で、私は、そんなことを、考えています。


変わりゆく自分を、受け入れながら。
変わらない「好き」を、深く、味わいながら。
そして、新しい隣人である「AI」との、心地よい距離感を、探りながら。

私たちは、これからも、この、面倒くさくて、愛おしい「人間」という存在を、生きていく。
その、ささやかな、しかし、確かな希望を、私は、今、感じています。

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