同じことをされても、怒る人と怒らない人がいる理由

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同じ出来事が起きても、怒る人と、怒らない人がいる。

まったく同じことをされているのに、片方は腹を立て、もう片方は何とも思わない。この違いは、いったいどこから来るのだろう。怒りについて考えていて、たどり着いた気づきを、自分のために書いておきたい。

※体調不良が続き更新遅れていました。

目次

出来事と、怒りは、別のものだった

長いあいだ、私は「起きた出来事が悪い」と思っていた。

嫌なことをされた。だから腹が立つ。原因は出来事のほうにあって、怒りはその自然な結果だと信じていた。

でも、あるとき気づいた。

出来事に「悪い」というラベルを貼ったのは、自分だった。そして、それに対して「怒る」という反応を選んだのも、自分だった。

同じ出来事でも、別の人は「悪い」と判定しないかもしれない。判定しなければ、怒りも生まれない。つまり、出来事と怒りのあいだには、必ず「自分がどう見るか」という一段が挟まっている。

出来事が、直接怒りを生むのではない。自分の見方が、怒りを生んでいた。

「相手が悪い」も、自分が決めたことだった

この気づきには、少し怖い側面もあった。

「相手が悪い」というのも、実は自分が下した判定にすぎない、ということになるからだ。相手が私を怒らせたのではなく、私が「これは怒るべきことだ」と決めて、怒ることを選んでいた。

そう考えると、感情の主導権が、自分の側に戻ってくる。

これは、責める話ではない。むしろ逆で、自由の話だ。出来事に振り回される側から、どう受け取るかを選べる側へ。怒るかどうかを、外の出来事ではなく、自分が握っている。

ただし、これは「我慢しろ」という話ではない

ここで、ひとつ大事なことを書いておきたい。

「怒りは自分の見方が作っている」——これを突き詰めすぎると、危うい方向にいく。何をされても「怒る自分が悪い」「私の受け取り方の問題だ」と、自分を追い込んでしまうからだ。

理不尽なことをされたとき、怒りは正当な反応だ。害を受けたなら、それは相手の問題であって、こちらの見方のせいではない。すべてを「自分の解釈のせい」にする必要は、まったくない。

だから、この気づきはこう使いたい。見方を選べる、という自由として。 我慢するための理屈としてではなく。

どうしても怒る必要のあることには、怒っていい。ただ、怒らなくてもいいことにまで、反射的に怒らされていないか——そこだけ、自分に問い直せればいい。

怒りの出し方が、大人の見せ所

そのうえで、もうひとつ思うことがある。

見方を変えられたとしても、怒りが完全に消えるわけではない。人間だから、湧くものは湧く。大切なのは、怒らないことではなく、湧いた怒りをどう外に出すかなのだと思う。

そのコントロールこそが、大人の見せ所なのかもしれない。

同じ怒りでも、そのままぶつければ関係を壊す。一度持ち帰って、言葉を選んで伝えれば、何かが動く。あるいは、書くことや作ることに変換すれば、まったく別のものに生まれ変わる。

怒りという感情そのものに、良いも悪いもない。問題になるのは、その扱い方だけだ。

怒りが減ったのは、責任感を手放したから

以前の私は、怒りを抑えるなんて、まったくできなかった。

一度イライラすると、止まらなかった。何か言われるたびに反応して、心がざわつき続けた。

でも最近は、変わってきた。何か言われても、されても、すぐに反応しなくなった。ざわつきや不安が、明らかに減った。

なぜだろうと考えて、思い当たったのは、責任感だった。

以前は「私が決めなきゃいけない」「私が正さなきゃ」と、何もかもを自分で引き受けようとしていた。すべてを背負っていると、思い通りにならないこと全部が、自分への妨害に見える。だから、いちいち腹が立つ。

それを、少しずつ手放した。「決まらなくてもいいか」「私が全部やらなくてもいいか」と、力を抜いた。

すると、妨害が、妨害ではなくなった。自分がすべてを握っていないから、思い通りにならなくても、揺れなくなった。

怒りが減ったのは、我慢を覚えたからではない。背負っていた荷物を、下ろしたからだった。

3行サマリ

  • 出来事と怒りは別。あいだに「自分がどう見るか」という一段が挟まっていて、そこが怒りを生む
  • ただし「何をされても自分の見方の問題」にはしない。理不尽への怒りは正当で、これは我慢の理屈ではなく選ぶ自由の話
  • 怒りは湧く。大切なのはその出し方。そして責任感を手放すと、そもそも怒りが減っていく

まとめ:どう見るかが、いつも先にある

結局、すべては自分がどう見ているかにかかっている。

同じ出来事でも、見方が変われば、感情が変わる。怒りは、出来事から自動的に生まれるのではなく、自分の解釈を通ってやってくる。だから、見方を選べるようになると、感情の主導権が自分に戻る。

でも、無理に怒りを消す必要はない。怒っていいことには、怒っていい。ただ、背負いすぎた責任感をそっと下ろすと、怒らなくていいことにまで怒らされることが、自然と減っていく。

そして、それでも湧いてくる怒りは、出し方を選べばいい。ぶつけるのか、持ち帰るのか、別のものに変えるのか。その選択の中に、その人らしさが出る。

窓の外で、夕方の光がやわらかく傾いていく。何かにざわついた心も、少し時間を置けば、静かに凪いでいく。急いで決めなくても、いい。そう思えるようになってから、世界が少しだけ、穏やかに見えるようになった。

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