ある日、普段は穏やかなその人が、別人になった。
私がそれまで一度も聞いたことのない種類の言葉が、その人の口から次々とこぼれていく。声の高さも、言葉の選び方も、何もかもが普段とは違っていた。強くて、キツくて、汚い。こんな語彙があの人の中にあったのかと、半分他人事のように思うくらいに。
そして、その光景を眺めながら、私はなぜか、ひどく静かだった。
巻き込まれもせず、怖くもなく、ただ観察している自分がいた。あとになって、そのことのほうが気になった。どうして私は、あんなに冷めていられたんだろう。
傷ついていたのは、放った本人だった
その場でいちばん私の目を引いたのは、言葉を浴びせられている相手ではなかった。放っている、本人のほうだった。
ひとことキツい言葉を吐くたびに、その人自身が、内側から削られていくように見えた。普段のその人を知っているからこそ、わかる。これはこの人本来の言葉じゃない。本来の自分にはない種類の刃を、むりやり口から押し出している。だから、その刃はまず、通り道である本人を傷つけていく。
外に向かって投げているつもりの言葉が、いちばん深く刺さっているのは、放った当人だった。攻撃というより、自傷に近い。
普段から荒い言葉を使う人なら、ここまでは思わなかったかもしれない。でも、普段の姿との落差が大きいほど――その人が自分自身を裏切って言葉を発しているように見える。だから痛々しかった。
怖くなかったのは、たぶん「そこまで思っていなかった」から
では、なぜ私はあんなに静かだったのか。
最初は、上手に境界線を引けたからだと思った。「これは私の中で起きていることじゃない、この人の中で起きていることだ」と、瞬時に切り分けられたからだと。あるいは、感じる代わりに観察する回路に切り替わったから、とも考えた。
でも、いちばん奥の理由は、もっと身も蓋もないものだった。
私はたぶん、そのことについて、そこまで思っていなかった。
怒りは、関心の濃さから生まれる。期待があって、こだわりがあって、「こうあってほしい」という思いがあるから、それが裏切られたときに燃える。逆に言えば、そこに重みを置いていなければ、そもそも火は点かない。
私が冷静でいられたのは、達観していたからでも、心が広いからでもない。ただ、燃えるほどの思いを、そこに置いていなかっただけ。そう気づいたとき、自分の静けさが、急に立派なものではなくなった。
怒れる人は、誰よりもそれを想っている
そこから、見え方が反転した。
怒りは、無関心の反対側にある。どうでもいいことに、人は怒れない。怒れるということは、それだけそのことを誰よりも考えて、心を割いていた、ということだ。
別人のように豹変したあの人は、つまり、それだけ大きなものを抱えていた。激しさは、抱えていたものの大きさの裏返しでもある。中間のボリュームを持てずに、0から一気に100まで振り切れてしまったのは――裏を返せば、それだけ普段、その思いを出さずに(あるいは、出せずに)きたということなのかもしれない。
怒りの加減を知らないのは、未熟だからとは限らない。怒ることに慣れていないほど、いざ出すときに加減を失う。ずっと飲み込んできた人ほど、堰が切れたときの勢いは強くなる。そう考えると、あの豹変は、その人がどれだけ長く何かを我慢してきたかの、目盛りのようにも見えてくる。
では、私の静けさは何だったのか
そう考えていくと、自分の冷静さの居心地が、だんだん悪くなる。
怒らずにいられたのは、平和だ。消耗もしないし、あとに残るざらつきもない。でもその平和は、「そこまで思えるものが、そこになかった」という事実と、たぶん地続きだ。
怒れる人は、何かを強く想える人でもある。だとしたら、怒らない私は、その何かを持っていない、ということでもある。静けさは、穏やかさの証であると同時に、淡白さの証でもある。誇れるものとも、限らない。
怒らずにいられる自分は、賢いのか。それとも、何も失わない代わりに、何も強くは持っていないのか――その問いには、まだうまく答えられない。
大切にするには、怒れた方がいい
それでも、ひとつだけ、思うようになったことがある。
大切なものを、ほんとうに大切にしたいなら、怒れた方がいい。
怒りを完全に手放すことが正解なのではない。何かを守りたいとき、譲れない線があるとき、そこでちゃんと怒れることは、たぶん強さだ。怒れないというのは、優しさのようでいて、ただ手放しているだけのこともある。
ただし、あの豹変のような怒り方では、自分を削ってしまう。大切なものを守るための怒りが、自分を傷つけて終わるのでは、本末転倒だ。
だとすれば、必要なのは「怒らないこと」ではなく、「自分を削らずに怒る技術」のほうなのだと思う。強く想えるものを、その想いごと壊さずに差し出す方法。
――その話は、また次回に。

