独自性の育て方|「自分らしさ」は探すより、拾い集めるもの

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自分らしさがわからない。そう言って、創作の手が止まったことはありませんか。

もっと個性を出さなきゃ。誰とも違うものを作らなきゃ。そう思えば思うほど、自分らしさは遠ざかっていく。私もずっと、独自性というものを、どこか外側にある正解のように探していました。でも本当は、それは探すものではなく、すでに自分の中に散らばっているものを拾い集めることだったのかもしれません。これは、創作を続けながらそのことに気づいていった、私の記録のようなものです。

目次

「しっくりこない」に、ずっと付きまとわれていた

創作をしていると、いつも同じ感覚に付きまとわれる。

なんだか、しっくりこない。これで自分らしさが出ているのか、確信が持てない。常に迷っていて、何かが定まらない。決定的に失敗したわけではないのに、「うーん、なんか微妙だな」という声が、心のどこかで鳴りやまない。

この感覚を、長いあいだ、自分の未熟さのせいだと思っていた。才能がないから定まらないのだ、と。けれど、あるとき考えが変わった。この「なんか違う」という感覚は、いったい何と照らし合わせて出てくるのだろう、と立ち止まったのだ。

比べていたのは、誰かの作品でも、頭の中の理想でもなかった。自分の中の感覚。本能。あえて言うなら、嗅覚のようなもの。その内側のセンサーが「これじゃない」と反応している。だとすれば、この違和感はノイズではなく、むしろ情報だ。自分が何に反応する人間なのかを、教えてくれる手がかり。「微妙」と感じることすら、自分を知るということだった。

独自性の材料は、日常の反応の中にある

そう気づいてから、違和感の扱い方が変わった。

「なんか違う」と感じたら、以前ならそこで落ち込んで手を止めていた。でも今は、その反応そのものを観察するようになった。なぜ違うと感じたのか。逆に、なぜあれには惹かれたのか。なぜあの瞬間、胸が動いたのか。惹かれた理由、違和感を覚えた理由、悲しかったり嬉しかったりした理由。それらを、ひとつずつ言葉にして拾っていく。

大切なのは、奇抜なことを考えようとしないことだ。独自性を、誰も思いつかない突飛なアイデアだと勘違いすると、途端に迷子になる。そうではなくて、材料はすべて、すでに自分の日常の反応の中に転がっている。何を好きだと感じ、何を嫌だと感じ、どこにこだわってしまうのか。その小さな反応の集積が、そのまま自分だけの地図になっていく。

そして、それは一度では見えてこない。作り続けて、数が溜まってはじめて、共通点が浮かび上がってくる。

作り続けたら、共通点が浮かび上がった

私自身の話をすると、答えはずっと、作品のほうが先に知っていた。

「ミッドナイトシュガーラッシュ」という曲を作ったとき、自分の中ですごくしっくりきた。作りたいものができた、という感覚があった。振り返ってみると、私が惹かれてきたものには、はっきりした共通点があった。まず、いつも夜の雰囲気の曲ばかり作っている。描くのは女性だけれど、ただの美女ではなく、少しだけ非現実の要素をまとった存在。そして髪の色は、淡いグリーンと淡いピンク。ここだけは、ほぼ揺らがずに決まっている。

面白いのは、これらを「独自性を出すために決めよう」と考えたわけではないことだ。作り続けているうちに、気づいたら何度もそこへ手が伸びていた。夜へ。非現実へ。淡い髪色へ。後から共通点として、勝手に浮かび上がってきた。独自性は、頭で設計したものではなく、反復の中から結晶のように現れたものだった。

独自性とは、隠している自分を外に出すこと

なぜ、その存在にこれほど惹かれるのか。長く考えて、ようやく言葉になった。

私が生み出す女性たちは、たぶん、私の中のカケラなのだ。私の創作は、いつも自分の中の変化を表現している。自分を見つめて出てきた問い、答え、まだ観察の途中の記録。そういうものが、作品という形になっていく。だから、作品の中の彼女は、私と全く同じであってはいけない。社会に隠れて生きている普段の私とは、少し違う。でも、まったくの別人でもない。現実の自分から、ほんの少しだけずらした場所に、彼女はいる。

ここに、独自性の正体があった。それは、他人と違うものを探すことではなかった。むしろ逆で、普段は隠している自分のカケラを、そっと外に出してあげることだった。現実の自分そのままでは、ただの記録にしかならない。けれど少しだけずらして形にすると、隠していた自分が、はじめて息をする。だから、自分を正直に見つめている限り、それは必ず、自分にしか作れないものになる。

独自性は、作るというより、育つに近い。あるいは、余計なものを削って、削って、最後に残る「どうしても反応してしまうもの」。それは奇抜さでも、差別化でもない。何度も何度も、自分がそこへ帰ってきてしまう場所のことだ。

ただ、ここで一つ、正直に付け加えておきたい。「カケラを外に出す」というのは、あくまで私の場合の話だということ。創作の根っこには、人それぞれの哲学や美学がある。私にとってそれは自分のカケラだけれど、まったく違う答えを持つ人もいる。以前、自分は仲介者なのだと語っていた人がいた。自分が影響を受けたものを表現に変えて、それを必要としている誰かのもとへ届ける。その橋渡しをするのが自分の創作なのだ、と。私の「カケラ」とは、まるで違う根っこだ。

けれど面白いことに、どちらの場合も、独自性の育ち方は同じなのだと思う。カケラを出す人も、仲介者である人も、結局は「自分が何度も反応してしまうもの」に沿って作り続けている。根っこにある哲学が違えば、そこから滲み出る独自性も違う。だからこそ、独自性は誰かと比べようがない。あなたが何に反応するのか、その根がどこにあるのか。それはあなたにしか掘り当てられないからだ。

独自性とは、他人と違うものを探すことではなく、自分が何度も反応してしまうものを見つけること。その材料は日常の「好き・嫌い・違和感」の中にあり、作り続けた先に共通点として浮かび上がる。それは、隠している自分のカケラを外に出す行為だった。

まとめ

夜、また新しいものを作りながら、私は淡い髪の彼女のことを思っている。

彼女がどこへ向かうのか、まだ定まっていない。自分らしさが完成したなんて、とても言えない。きっとこれからも「なんか違う」と迷いながら、作り続けるのだろう。

それでもいい。その「なんか違う」の一つひとつが、私の輪郭を少しずつ描いてくれている。定まらないまま手を動かしたその跡に、いつのまにか、自分だけの地図ができていく。今夜も、そのカケラをひとつ、外に出してあげようと思う。

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