「え、どうしてそうなるの?」
人の話を聞いていて、思わずそう聞き返したくなったことはありませんか。戸惑ってもいいはずの発想なのに、なぜかもっと聞きたくなる。
私には、その引力にめっぽう弱いところがある。今回はその理由を、自分のために言葉にしてみたい。
「あなた、クレイジーなの?」が、最高の褒め言葉になる人
誰かと話しているとき、私はたいてい、相手の次の言葉をうっすら予測している。だから、その予測が大きく外れた瞬間はすぐにわかる。頭の中で、小さな歯車がひとつ空回りする。
あなた、クレイジーなの?
口には出さない。でも心の中で、わりと本気でそう思う。そして困ったことに、私が楽しいと思える人は、だいたいこの一言を引き出してくる人なのだ。
何を考えているのか、よくわからない。突拍子もないことを、前触れもなく言ってくる。それなのに理由を聞いてみると、ちゃんと筋が通っていて、聞き終わる頃には「それは確かに、そうしたほうがいいな」と、こちらが納得させられている。
驚いて終わる話と、驚いたあとに自分の考えが組み替わる話がある。私が惹かれるのは、いつも後者を持ってくる人だ。
決めたら、もう動いている
もうひとつ、どうしても惹かれてしまうのが、決断と行動の速さだ。
前回書いた、トランクの中身を迷いなく空にして「よし! これでOKだ。行こう!」と言った彼が、まさにそういう人だった。やると決まったなら、すぐに動く。「やると決まったのに動かない方がおかしいだろ」と、笑いながら言ってのけるような人。
私はわりと考える人間だ。考えて、予測して、点と点をつないでから動きたい。だからこそ、考えるのと動くのがほぼ同時に起きている人を見ると、少し呆れながら、ずいぶん憧れてもいる。
そして、そういう人は、ときどきとんでもない一手を打ってくる。
「俺、海外に住むことにした」
実際に、言われたことがある。
海外に住むことにした。
語尾には、笑いが混ざっていた。相談ではなく、もう決まったことの報告だった。続けて、彼は言った。
「お前は好きにしろ」
一緒に海外に来てもいいし、日本にいてもいい、と。
冷静に考えれば、ずいぶん一方的な話だ。私に何の相談もなく、人生の大きなことを一人で決めている。腹を立てる人がいても、まったくおかしくないと思う。
それなのに、そのときの私が感じたのは、面白いな、だった。
自分の行き先はさっさと決めて、もう歩き出している。でも、私の行き先までは決めなかった。「ついてこい」でも「待っていてくれ」でもなく、好きにしろ。大胆な決断のすぐ隣に、私が選ぶための場所がそのまま空けてあった。
それが彼なりの優しさだったのか、単にそういう流儀の人だったのかは、正直わからない。ただ、あの一言を聞いた瞬間、私は不思議と自由だった。
不安にさせる人が、私の不安を消していく
正直に言えば、こういう人と一緒にいると、こっちはいつも不安だ。
何を考えているのか謎で、次に何を言い出すかわからない。来月から海外、なんて話が平気で飛んでくる。
それなのに、私が一番不安なとき、一番冷静なのもこういう人なのだ。
私はパニックになると、点と点を探偵のようにつなぎ合わせ始める。あれがこうなって、だからこうなるかもしれない。悪い可能性まで一つずつ拾い上げて、まだ来てもいない未来を組み立てる。そして、自分で組み立てたその未来に、勝手に怯えている。
そんなとき、「そんなの簡単だろ」と、あっさり解決策を出してくる人がいる。
私が必死に積み上げていたものとは、まるで違う方向からの一手。さっきまで握りしめていた点と線が、急にばかばかしく見えてくる。悩んでいたこと自体が、ちょっと可笑しくなる。
不安定なことも、それが俺の正解だ。そう言って突き進んでいく人は、たぶん不正解すら、あとから正解にしてしまう。
ここで、ようやく気づいた。
私を不安にさせる人と、私の不安を消してくれる人は、同じ人だった。
予測不能だから惹かれていたのではないのかもしれない。私の予測を、悪いほうにも良いほうにも軽々と飛び越えていく。その頭の中に、私は惹かれていたのだと思う。
生命力は強そうなのに、弱点がある
ここで少し、自分でも笑ってしまう好みの話を。
人は欠点に惹かれる、とよく言う。私も、友情でも恋でも、欠点が魅力に見えることがある。
特に弱いのが、生命力は強そうなのに、明確な弱点がある人だ。しかもその弱点を、本人がちゃんと気にしていて、隠そうとしたり、どうにか克服しようとしていたりする。
あれだけ突拍子もなく生きている人が、その一点だけはこっそり気にしている。そこを見つけてしまうと、もうだめだ。
放っておいてくれる人がいい
私が考えごとをしていても、間違ったことをしても、放っておいてくれる人がいい。
少しドライかもしれない。自分のケツは自分で拭けよ、という距離感。「それじゃあ失敗するかもな。まぁ、とりあえずやってみろよ」と笑って見送ってくれるような人。それはお互いさまで、私も相手の選択に、いちいち口を出したくない。
あまり家にいない人がいい、とさえ思う。いても、いるのかいないのかわからないくらい。同じ家にいても会わない時間があるくらいが、ちょうどいい。
それぞれにやることがあるなら、離れていてもいい。一生ずっと一緒にいなきゃいけない、なんて決まりはない。ただ、いざというときには「飛んで行ってやる」くらいの気持ちがあれば、それで十分な気がしている。
だから、「私がいないと死ぬ」みたいな人は無理だ。
「はぁ? お前がいなくても生きるに決まってんだろ」
そう笑って言える人のほうが、ずっといい。
それは、強いか弱いかの話ではないのだと思う。じゃあ何の話なのか。それは、この連載のもう少し先で考えてみたい。
ひとつ確かなのは、私が面白がれるクレイジーさには、ちゃんと境目があるということだ。自分のやりたいことを突き進む人は好きだ。でも、それを私にまで押しつけてくる人は、たぶん面白がれない。あの「好きにしろ」が私を自由にしたのは、彼が自分のことしか決めなかったからなのだろう。
私が面白いと思うのは、その人の頭の中なのかもしれない
ここまで書いてきて、「変わった人が好き」という言い方は、少し違う気がしてきた。
私が惹かれるのは、自分とは違うやり方で世界を見ている人だ。突拍子もない一言の奥に、私の知らない考え方が通っている人。私の予測を飛び越えながら、私のことは放っておいてくれる人。
それでも、全部を説明できたとは思っていない。静かな暮らしを好んで、点と点をつないで生きている私が、なぜ「来月から海外」と笑って言う人を面白がってしまうのか。その答えは、たぶんまだ半分くらいしか見えていない。
今夜の小さな気づき
私が惹かれるのは、予測不能な人ではなく、予測を軽々と飛び越えていく頭の中らしい。 私を不安にさせる人と、私の不安を消してくれる人は、同じ人だった。 クレイジーでいい。ただ、私の行き先は、私に残しておいてほしい。
好きにしろ、と言われた日
海外に住むことにした。
そう聞いて、「お前は好きにしろ」と言われたとき、私の頭に浮かんだのは、どうしよっかな、という一言だった。
困った、ではなく、どうしよっかな。
一緒に行ってもいいし、日本にいてもいい。選択肢を目の前にぽんと置かれて、私はなぜか、少しわくわくしていた。
海外、一緒に行こうかな。
そう思った自分に、思わず笑ってしまった。どうやら私も、それなりにクレイジーらしい。

