スーパーで、いつものめんつゆを手に取る。麺のしめ方と同じくらい、つゆの味は仕上がりを左右する。だから私は、少し高くても、自分が美味しいと思うものを選んでいる。それだけの話のはずだった。
けれど、それを何気なく口にしたとき、相手が少し不快そうな顔をしたことがある。別に、普通のめんつゆを使っているふりをする必要も、取り繕う必要もなかったはずだ。それなのに、素直に「少し美味しいものを買っている」と言っただけで、空気が変わった。生活に関することは、基本的に何も話さないほうがいいのかもしれない。そう思うようになった出来事だった。
なぜ、他人の贅沢は気になるのか
誰かが高いバッグを買った。旅行に行った。高級ホテルに泊まった。外食が多い。いい家に住んでいる。これらは本来、自分の生活とは直接関係がない。それなのに、「どうしてそんなにお金を使えるんだろう」「そんなに使って大丈夫なのかな」と、気になってしまうことがある。
不思議なのは、めんつゆのような小さな買い物にも、同じことが起きるという点だ。金額の大きさが問題なのではない。他人の消費というものが、なぜか自分の中の何かを刺激する。
比較が始まる場所
他人の消費を見たとき、実際に起きているのは、「その人が贅沢している」という観察だけではないと思う。そこには、自分はそれを持っていない、自分はそこにお金を使えない、自分はこれだけ働いているのに、という、自分側の情報との照合が同時に始まっている。
その照合は、相手が自分に近い立場のときほど、はっきり働く。会社のおじさんに、「僕はドトールには行かない、代官山にあるカフェが好きだ」と言われたことがある。金額としてはたいした差ではない。それでも、同じ職場にいる人からそう言われると、単なる好みの話では済まされない響きを持つ。これが遠い世界の富裕層の話であれば、ここまで引っかからなかったはずだ。
同じ職場、似た年代、似た生活圏。そういう相手には、無意識のうちに「自分と同じくらいだろう」という横並びの前提を置いてしまっている。その前提が外れたとき、「なぜこの人はそれができるのか」という感覚が生まれる。「この人は自分と同じくらいの場所にいる」という前提が、静かに崩れる感覚がある。
羨ましさが、採点に変わるとき
「いいな」で終われば、それはただの羨望だ。でも、そこに「自分はこんなに我慢しているのに」という感覚が混ざると、不公平感に変わっていく。相手が何を我慢しているか、何にお金を使っていないか、実際の懐事情がどうなっているかは、こちらには分からない。それでも人は、見えている贅沢だけを材料に、自分との帳尻を合わせようとすることがある。
同時に、これは評価される側にもそのまま返ってくる。めんつゆの一件がまさにそうだった。私にとっては、味を左右する調味料への投資でしかなかったものが、相手の中では、いつのまにか合理性の問題にすり替わっていた。「自分ならそこにお金を使わない」という、本来はただの好みでしかないはずのものが、「そこにお金を使うのは合理的ではない」という評価に変わる瞬間が、たしかにある。贅沢というものは、客観的に決まっているわけではない。何を大切にし、何を削り、何を残すか。その基準は人によって違う。自分にとっては浪費に見えるものが、相手にとっては最優先事項ということもある。逆もまた同じだ。私が本やインテリアに使うお金も、別の人からすれば「なぜそこに」と思われているかもしれない。
何が気になり、何が気にならないか
面白いのは、他人の消費そのものより、なぜそこにお金を使うのかのほうが、私には気になることが多いという点だ。それはその人にとって、その金額を払うだけの価値がある話なのだろう、と考え始めると、良し悪しの判断からは少し外れていく。比較が始まると、そこに羨ましさや不公平感が入り込む余地が生まれる。他人の贅沢そのものが問題なのではなく、それを比較の材料として使うかどうかが、分かれ道になっている。
結論
他人の贅沢が気になったとき、相手を評価する前に、自分は何を比較しているのかを見てみるほうが、実は近道なのだと思う。その人が贅沢していることよりも、自分が何に不足を感じたのか、あるいは何を比較の対象にしてしまったのかのほうが、自分にとってはよほど重要な情報だったりする。
他人の贅沢を見ているようで、実は、自分が何を「普通」だと思っているのかを見ているのかもしれない。めんつゆの一件も、代官山のカフェの一件も、今振り返ると、そういう話だったのだと思う。
3行サマリ
・他人の贅沢が気になるとき、人は相手の生活以上に、自分の位置を確認している
・特に、自分と近い立場の人の消費ほど、比較の対象になりやすい
・他人の消費が気になったとき、自分は何を比較し、何を評価しているのかを見ると、その違和感の正体が見えやすい
ある夜のこと
夜、一人の部屋で、私は今日あった小さな引っかかりを思い返している。誰かの一言。ふと浮かんだ「なんで」という感覚。たぶん、これからも何かにひっかかる日はある。他人の消費が、もう一切気にならなくなる日なんて、きっと来ない。
それでも、もう慌てなくていい。気になったときは、それが何との比較だったのかを、もう一度自分に聞き返せばいい。冷蔵庫の中の、あの少し高いめんつゆの瓶が目に入る。別に誰かに見せるためでも、証明するためでもなく、ただ美味しいから選んだだけだった。それでいいはずだったのに、と思いながら、今日はもう寝ることにする。

