夜、部屋の隅の家具をひとつだけ動かした。
ソファの角度を変えただけなのに、灯りの当たり方が変わって、部屋全体の空気が少し違って見えた。
うまく言葉にできなかったこの感覚を、今日はここでほどいておきたい。
写真を撮って、誰かに送りたくなった。
指がスマホのアイコンまで動きかけて、でも押さなかった。
誰にも見せていない。それでも、ちゃんと嬉しかった。
誰かと比べると、自分の位置は分かりやすくなる
同年代の年収、結婚しているかどうか、友人の数、仕事での評価、SNSで流れてくる誰かの楽しそうな投稿。
指を止めてしまうことがある。比べると、自分が今どこに立っているのかが、分かりやすくなる。
誰かより上にいると感じられたときは、正直、それだけでほっとする瞬間もある。
ただ、それだけを幸福の基準にしてしまうと、厄介なことが起きる。
自分が今幸せかどうかを確かめるために、いつも比較対象としての「誰か」が必要になってしまうのだ。
誰かがいなければ、自分の状態すら判定できなくなる。
比べていることに、自分で気づく瞬間
寝る前、なんとなく開いたSNSのタイムラインを、指先だけで送っていた時間がある。
誰かの旅行の写真、誰かの昇進の報告、誰かの「今日も楽しかった」という一言。
読んでいるうちに、いつのまにか自分の一日と照らし合わせている自分に気づく。
比べること自体をやめようとは、あまり思っていない。
人と自分を比べる機能は、そう簡単には手放せないものだと思う。
ただ、比べたあとに残る感情が、そのまま自分の機嫌を決めてしまうのだとしたら、それは少し危ういのかもしれない。
幸福の判定権は、誰が持っているのか
誰かに認められると嬉しい。
必要とされると安心する。
何かを完成させると、すぐに人に話したくなってしまう自分もいる。
そのたびに、まだまだだなと思う。
それ自体は悪いことだとは思っていない。
承認されたい気持ちも、比べて安心したい気持ちも、人として自然な反応だ。
問題が生まれるのは、「誰かがそう言ってくれなければ、自分の人生を肯定できない」という一文が、心の中で本当になってしまったときだ。
そうなると、自分が幸せかどうかを決める権利——いわば判定権——を、まるごと他人に渡してしまうことになる。
誰にも見せなくても、満たされる瞬間はある
最近、部屋を少しずつ変えている。
家具の位置、置くものの色、灯りの角度。誰にも見せていない。
一人暮らしだから、その部屋を使うのも、変化に気づくのも、結局は自分だけだ。
それでも、何かを動かすたびに、静かに満たされる瞬間がある。
エアロバイクを一時間漕げるようになったことも、誰かに褒められたからではない。
続けてきたこと自体が、なぜか嬉しいのだと思う。
誰にも見せない。SNSにも載せない。褒められもしない。
それでも、確かに満たされている。
一人で幸せなことと、人を必要としないことは違う
相手の何気ない一言が妙におかしくて、こちらもふざけて調子を合わせて、二人で笑ってしまったことがある。
あれは、一人では絶対に起きなかったケミストリーだった。
誰かといる幸福も、ちゃんと好きだ。
ただ、誰かがいないと幸福になれない状態にはしたくない、というのが今の実感に近い。
一人で成立する喜びがあって、そのうえに誰かとの喜びが積み重なる。
順番として、自分にはそのほうがしっくりくる。
比べることをやめれば幸せになれる、というほど単純な話ではないのかもしれない。
本当のポイントは比較そのものよりも、判定権をどこに置いておくか、ということだったように思う。
静かなインプット3行サマリ
・誰かに認められたい、比べて安心したいという気持ちは、それ自体自然なもの
・ただ、それだけが幸福の判定基準になると、いつも他人が必要になってしまう
・誰にも見せなくても嬉しいことを持っていると、幸福を他人任せにしなくて済む
ある夜のこと
夜、また同じ部屋の隅を眺めている。
今日も、写真を撮って誰かに送りたい気持ちが少しだけ湧いた。
でもやっぱり、そのままスマホを置いた。
画面が暗くなって、部屋の灯りだけが残った。
誰にも見せなかったけれど、それでもちゃんと嬉しかった。

