自分軸が育つと外見も変わる理由|内面と外見が「一致していない」違和感の正体

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朝、部屋のラグに足の裏がふれる。深い赤。以前の自分なら絶対に選ばなかった色だ。窓から入る光が赤の上で少しくすんで見える瞬間、ふと足を止めてしまう。この部屋は、もう前の自分の部屋ではないのに、そこに立つ自分だけが、まだ前のままの格好をしている気がして。

この違和感がどこから来たのか、順番を辿ってみたくなった。

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無難という名の「内面の否定」

思えば、以前の自分は「無難」を選び続けていた。派手ではなく、目立たず、一般的であること。それが安全だと信じて疑わなかった。けれど今振り返ると、それは選択ではなく、内面への否定から来る回避だったのだと思う。自分がどうありたいかではなく、必要最低限の清潔感と、不快感を与えない状態を保つだけになっていた。

その頃の自分は、それが「自分らしさ」なのだと本気で思い込んでいた。無難さの中に自分がいると錯覚していた。判断基準はいつも自分の外側にあった。浮かない服。年齢相応に見える服。シンプルな服。「似合う」よりも先に、「変に思われない」が判定基準として立ちはだかっていた。それは他人軸だった。でも当時の自分には、それが他人軸だという自覚すらなかった。自分の内面を否定していたぶん、外側の判断基準に丸ごと明け渡していたのだと思う。それを、自分軸だと信じ込んでいた。

橋を渡るように、ここでようやく一つの転換が起きた。他人軸の中に埋もれていた自分ではなく、本来の自分軸というものに、初めて目を向けられるようになったのだ。

部屋が先に、自分軸を映し始めた

自分軸に目を向けられるようになって、最初に変わったのは自分の格好ではなく、部屋だった。それまでの部屋は、機能的で、ものが少なくて、動線だけを考えた、暮らしやすさのための空間だった。効率を優先する頃の自分にとっては、それが正解だったはずだ。

けれどある時から、その「正解」に物足りなさを感じ始めた。機能や利便性ではなく、自分の美学や哲学を反映した空間にしたい。そう思うようになって、最初に置いたのが丸いテーブルだった。天板のサイズ、木の色、椅子との組み合わせ。ひと月ほどかけて、いろんな丸テーブルを見比べた。効率だけを考えるなら、こんなに時間はかけなかったはずだ。それでも納得できるものが欲しくて、じっくり吟味した。

そうして手に入れたテーブルのおかげで、部屋の一角が、まるでカフェのような空間になった。落ち着くことしかなかった部屋の中に、初めて「可愛い」と思える家具ができた。心からお気に入りだと思えるものが、そこにあった。

テーブルが空間の核になると、今度は部屋の色にアクセントが欲しくなった。そこで選んだのが、深い赤のラグだった。以前の自分なら絶対に選ばなかった色。無難さを手放して、自分がただ好きだと思う色を、初めて空間に置いてみる、ちょっとした冒険だった。

たとえば、それまでの自分なら「浮くかもしれない」と避けていた色や質感を、部屋になら思い切って取り入れられた。服なら躊躇していた色を、テーブルやラグでは選べた。空間は、格好よりも先に、自分軸を映す実験の場所になった。

空間が変わると、そこにいる自分も合わせたくなる

部屋の空気が変わっていくと、不思議なことが起きた。その空間にいる自分自身の佇まいが、部屋に対して見劣りするように感じ始めたのだ。美学のある部屋の中に、無難で機能重視だった頃の自分の格好や身体の扱い方が、そのまま取り残されている。そのちぐはぐさに、気づいてしまった。

だから運動を毎日の習慣にし始めた。「こんな自分が好き」という自分軸の中で、身体を動かすことが必要だと感じたからだ。以前の運動は、痩せて見える服を着るための手段だった。でも今回は違う。誰かの目のためではなく、自分がつくった空間にふさわしい自分でいたい、という動機だった。

自分を丁寧に扱うことの延長で、マッサージも自分でするようになった。髪も乾かさずに寝てしまうような、ズボラな自分だったのに。それでも少しずつ、美容や健康も、自分を大切に扱うことの一つなのだと思えるようになってきた。誰かのためではなく、自分のために。すると表情が変わってきた。体型も、肌の艶も、緩やかに変わってきている。鏡を見る時間そのものが、以前とは違う意味を持ち始めている。

面白いのは、これを誰かに指摘されたわけではないということだ。「痩せた?」も「雰囲気変わったね」も、まだ誰からも言われていない。それでも自分の内側には、「もっと、もっと」という静かな推進力がある。以前の自分なら、他人の反応がなければ変化への意欲は続かなかったはずだ。承認がなくても止まらないこの感覚は、自分でも新しい。

外見を整えたい動機は、承認ではなく「一致感」だった

ここでようやく気づいたことがある。外見を整えたいと思うようになったのは、誰かに良く見られたいからではなかった。自分がつくった空間と、そこにいる自分自身とを、一致させたかっただけなのだ。他人軸で外見を選んでいた頃、判断基準は常に外にあった。浮かないか、年齢相応か、痩せて見えるか、誰かに受けるか。今回はその基準がひとつもない。あるのは、この部屋に立つ自分として、これで合っているかという一致感だけだ。

今、自分の変化は、自分軸→部屋→身体という順番で進んできた。人の目に見える形での変化は、実はまだ少ない。服も、髪型も、以前とそう大きくは変わっていない。それでも、部屋と身体がこれだけ変わってきたのに、格好だけがまだ前のままで止まっている。無難で、機能的で、楽なことだけを考えて選んできた服には、らしさも、美学も、哲学も、まだそこに宿っていない。そのちぐはぐさに、はっきりとした違和感を覚え始めている。

3行サマリ

・自分軸に気づいてから、まず変わったのは部屋、そのあと身体だった
・外見を整えたい動機は、承認ではなく空間との「一致感」だった
・部屋と身体は変わったのに、格好だけがまだ追いついていない今のフェーズ

まとめ

自分軸というのは、頭の中だけに存在するものではないのだと思う。内面、部屋、身体、そして格好——それらは本来、一本の線でつながっているはずのものだ。今の自分は、その線が部屋と身体まで伸びて、格好の手前でまだ途切れている状態にいる。

深い赤のラグの上に立つとき、足の裏に伝わる質感だけが、今の自分と一致している。あとどれくらいで、鏡の中の自分もこの赤に追いつくのだろう。

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