人を定義することと、人を理解することの間

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「あなたは強いから」。

そう言われるたびに、少しだけ疲れることがある。
悪口を言われたわけではない。
むしろ、褒められているはずだ。

それなのに、なぜか素直に受け取れない自分がいる。

目次

「強いからできた」のではなく、できるまでに過程があった

つらい時期でも仕事を続けた。
自分で生活を立て直した。
環境を変えた。
一人暮らしをしている。
問題が起きたとき、自分で対処した。

結果だけを並べれば、たしかに「精神的に強い人」に見えるのかもしれない。

でも自分の中では、怖かった時間があった。何度も迷った。やめたくなったこともある。体調を崩したこともある。うまくいかなかった方法もいくつもあって、そのたびに考え直してきた。強いからできたのではなく、その時々で必要なことを考え、試し、うまくいかなければまた考え直す。それをただ繰り返してきただけだったように思う。「あなたは強い」という一言は、その過程を全部まとめて、省略してしまう。

行動を見られることと、人格を評価されることの違い

「よくそこまでやったね」「大変だったでしょう」「いろいろ試してきたんですね」。そう言われるのと、「あなたは強いからできるんですよ」と言われるのとでは、少し違う。

前者は、行動や過程を見ている。後者は、その結果を、「あなたは強い人だから」という人格や性質に変換している。もがいたこと、失敗したこと、考え続けたこと。そうした過程が、「強い人だからできた」という一言に置き換わった瞬間、自分が経験してきたものと、相手から見えている自分との間に、小さなズレが生まれる。

「私は弱い、あなたは強い」という関係性

人から、「自分は弱い」「自分にはできない」「でもあなたはできるから強い」という趣旨のことを言われることがある。相手に悪意があるとは思っていない。むしろ褒めているつもりなのだと思う。それでも、なぜか疲れる。

考えてみると、「私は弱い」「あなたは強い」という二つのラベルが同時に置かれることで、相手は弱い側、私は強い側、という関係性そのものが、その場で決められてしまうからなのだと思う。お互いに合意したわけでもないのに、いつの間にか役割が割り振られている感覚がある。

ラベルによって、役割まで固定されていく

「あなたは強い」という言葉だけなら、単なる評価で終わるかもしれない。でも人間関係の中では、あなたは強い、だからあなたなら大丈夫、だからあなたは一人でも平気、だから弱っている私のことも受け止められる、というふうに、無意識のうちに役割まで付属していくことがある。

もちろん、すべての人がそうしているわけではないし、「強いですね」と言う人が、意図的に相手へ負担を押しつけているとも思わない。ただ、言葉によって、関係性の構図そのものが、いつの間にか作られてしまうことがあるのだと思う。

なぜ肯定的なラベルは、拒否しにくいのか

「強い」は、基本的に肯定的な言葉だ。だからこそ、「私はそんなに強くありません」「そういうふうに決められるのは、少し苦しいです」とは言いづらい。否定すると、「謙遜している」「そんなことないですよ、あなたは強いですよ」と、さらにラベルを貼り直されることさえある。悪い評価なら、否定すればそれで済む。でも良い評価は、否定してもなぜか「謙遜」として処理され、結局は同じ場所に戻される。本人の自己認識より、周囲の評価のほうが、優先されてしまう瞬間がある。

悪口なら、距離を取ればいい。でも、善意や褒め言葉として渡されたラベルは、受け取らないことのほうが、意外と難しい。

外から見える自分と、自分が感じている自分は別

外から見て強そうな人でも、本人は自分を強いと思っていないかもしれない。一人で何でもやっているように見える人も、一人が好きだからではなく、そうする必要があっただけかもしれない。

外から観察できる「行動」と、その人自身が感じている「自己認識」は、別のものだ。他人から見える姿だけで、「あなたはこういう人」と決めてしまうことには、こうした危うさがある。これは、自分で自分にラベルを貼るときにも起きることだけれど、他人から貼られたラベルは、自分で貼るラベルと補強し合ってしまうこともある。周りからずっと「強いね」と言われ続けていると、自分でもいつの間にか、それをそのまま信じ始めてしまうことがある。

「強い・弱い」ではなく、経験していることを見る

だからといって、人を強い・弱いで判断してはいけない、と言いたいわけではない。ただ、少なくとも私は、「あなたは強い人ですね」と言われるより、「そこまで来るのに大変だったでしょう」「いろいろ考えてきたんですね」「それでも続けてきたんですね」と、過程のほうを見てもらえるほうが、ずっと素直に受け取れる。人格を評価するのではなく、経験を見る。この二つは、似ているようで、少し違う。

3行サマリ

・「あなたは強い」という言葉は、そこに至るまでの過程を省略してしまうことがある
・「私は弱い、あなたは強い」というセットは、合意のないまま関係性の役割を決めてしまうことがある
・人を評価するより、その人が経験してきたことを見るという方法もある

ある夜のこと

今日も、「あなたは強いから大丈夫だよね」と言われた。
いつものように、「そんなことないですよ」と返しながら、少しだけ喉の奥が重くなるのを感じた。

人から強く見えることと、自分が強いと思っていることは、同じではない。
人は、見えている行動から、他人を理解しようとする。
それ自体は自然なことだと思う。

ただ、「あなたはこういう人」と名前をつけた瞬間、その人のまだ見えていない部分や、そこに至るまでの過程を、見落としてしまうことがあるのかもしれない。
人を理解することと、人を定義することは、似ているようで、少し違う。

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