数字で説明できるようなことではないのだけど、朝起きたときの感覚や、仕事終わりの疲れ方が、明らかに違う。
以前は、休みの前日になっても頭のどこかで仕事のことを考えていた。今は、仕事の後に何も引きずっていない日があることに気づいて、少し驚く。
最初は単純に「楽になった」と思っていた。 でも少し経ってから、それだけではない感覚があることに気づいた。
「今の自分が、たまたま恵まれているだけなのだろうか」
そうではなく、
「もしかすると、今くらいがもともとの状態で、以前の負荷のほうが大きすぎたのではないか」
という感覚だった。
そしてもう一つ、気づいたことがある。 以前の私がやっていた「強くなろう」「気にしないようにしよう」「前向きになろう」という努力そのものも、私にとっては負荷だったのではないか、ということだ。
ストレスを感じたとき、なぜ人は、ストレス源を減らせないかより先に、どうすれば自分がストレスに強くなれるかを考えてしまうのだろう。 本当に必要なのは、自分をもっと強くすることなのか。それとも、そもそも耐え続ける必要のない負荷を抱えていないか、確認することなのか。 以前の私は、この問いを立てたことすらなかった。
ストレスに気づいていなかったわけではない
以前の自分が、ストレスに気づいていなかったわけではない。
「これはストレスだな」「この人と話すと疲れるな」「今日は負荷が大きかったな」ということは、そのつど分かっていた。
ただ、そこから先の考え方が、今とは少し違っていた。 「この環境には無理があるかもしれない」ではなく、「私がもっとうまく対処できるようにならなければ」という方向に、自然と考えが向かっていた。
ストレスを感じることと、そのストレスを受け続ける必要があるのかを疑うことは、たぶん別のことなのだと思う。 当時の私は、前者はできていたけれど、後者はほとんどしていなかった。
「疲れる」と口にすることはあっても、「これは疲れて当然の負荷なのか」というところまでは、あまり考えていなかったように思う。疲れの理由を探すより先に、疲れている自分をどうにかしようとしていた。
「もっと強くならなければ」という発想
ストレスが続くと、考えることはだいたい決まってくる。
私が弱いから気になるのかもしれない。 もっと精神的に強くならなければ。 いちいち反応しない人になろう。 スルースキルを身につけよう。 ポジティブに考えよう。
こうして並べてみると、どれも前向きな努力に見える。自分を成長させようとしているようにも見える。
でも今になって思うのは、なぜ自分だけが変わる前提だったのだろう、ということだ。 ストレスの原因が、考え方だけではなく、働き方や役割、関わる人の多さ、負荷の大きさそのものにあるのなら、自分だけを合わせ続けることには、どこかで限界が来る。
対処のための努力が、もう一つの負荷になっていた
振り返ってみると、当時の私は、ストレスに対してかなり真面目に対応しようとしていた。
もっとポジティブになろう。運動をしよう。気にしないようにしよう。考え方を変えよう。手帳に「今日の良かったこと」を書く。寝る前に一日を振り返らないようにする。深呼吸をする。
どれも、それ自体は悪いことではないと思う。実際に助けられたこともある。
ただ、こうして次々に自分へ課題を課していくと、もとのストレスに加えて、「それをうまく処理しなければならない」という負荷が、もう一つ増えていく。これだけ多くの対処法が必要だったこと自体、当時の負荷の大きさを示していたのかもしれない。
それだけの数の対処法を並行してこなそうとしていたこと自体が、すでに一つの仕事のようになっていた。
強い雨の中に立ち続けながら、もっと丈夫な傘を買おう、濡れても気にしない人になろう、雨を楽しめる考え方を身につけよう、と努力していたようなものかもしれない。
丈夫な傘は、たしかに役に立つ。でも、屋根のある場所に移動する、雨が弱くなるまで待つ、という選択肢もあったはずだった。 対処する力を高めることと、その場から距離を取ることは、別の問題なのだと思う。
環境が変わって、初めて見えた負荷
最近になって仕事のストレスが減ったとき、感じたのは「楽になった」ということだけではなかった。 「あの頃は、こんなに負荷がかかっていたのか」ということのほうが、正直驚きが大きかった。
毎日どこかで疲れている。何かを考え続けている。人間関係に神経を使う。仕事が終わっても、家でまだそのことを考えている。
それが続くうちに、「仕事とはこういうもの」「これくらいは普通」「私がもっとうまく対応すればいい」という基準ができあがっていた。比較する対象が、その環境の中にしかなかったからだと思う。
環境が変わって、負荷の少ない状態を知って、初めて「前の状態のほうが、実は普通ではなかったのかもしれない」と気づいた。
だからといって、ストレスがまったくない状態を目指したいわけではない。仕事をしていれば、面倒なことも、予定外のことも、人との摩擦もある。 ただ、慢性的に自分を削るような負荷まで、「人生とはそういうもの」として片づけてしまう必要はないのだと思う。
静かな状態のほうが、落ち着かなかった時期もあった
正直に言うと、負荷が減ってすぐの頃は、それほど心地よくはなかった。
何も起きていない。誰からも急かされていない。次に何を身構えればいいのか分からない。 仕事が終わっても、特に考えることがないことに、最初は妙な違和感があった。 その感覚に、ほっとするというより、居心地の悪さに近いものを感じていた時期がある。
ずっと張り詰めていた状態が「いつもの自分」になっていたから、そこから外れると、逆に落ち着かなかったのだと思う。
でも少し時間が経つと、その「何も起きていない」状態のほうが、実は本来に近い状態だったのかもしれない、と思うようになった。 緊張している状態を基準にしていたときは、そのことに気づきようがなかった。
強さと、環境に適応できることは別のもの
ストレスの多い環境に耐えられる人を、「強い人」だと思うことがある。
でも、強い負荷に耐え続けられることと、健康的に過ごせていることは、たぶん同じではない。 耐えている。仕事を続けている。問題なく振る舞えている。それだけで、「大丈夫」だとは限らない。
逆に、耐えられなくなった人を「弱い人」だと考えることにも、あまり意味がないように思う。 その人の耐久力の問題というより、その人にかかっている負荷が、そもそも適切な量だったのかを見たほうがいいのかもしれない。
以前の私は、耐えている人を見て、この人はすごいと思うことがあった。でも、すごさと、無理をしていないことは、別の軸なのだと今は思う。
対処するか、離れるか、ではなく
ここまで書くと、「嫌なことからは全部離れればいい」という話に聞こえるかもしれないけれど、そういうことを言いたいわけではない。
人生には、自分では取り除けない負荷もある。体調のこと、仕事上の一時的なトラブル、大切な人との別れなど、避けられない出来事はいくつもある。 そういうときには、考え方を変えること、人に相談すること、休むこと、専門家を頼ることが、実際に助けになる。
だから、「ストレスへの耐性を高める」か「ストレス源から離れる」かの二択にしたいわけでもない。 大切なのは、今の自分に必要なのがどちらなのかを、見分けることなのだと思う。
たとえば、大きな仕事の前だけ緊張するのと、特定の相手と関わるたびに消耗するのとでは、必要な対応が違う。前者は一時的にやり過ごせば済むことが多いけれど、後者はいくら対処法を増やしても、根本の負荷はあまり減らないことがある。
一時的な負荷なのか、慢性的に受け続けている負荷なのか。特定の関係が大きな要因になっていないか。そもそも、その状況から距離を取ることができるのか。
すべてを自分の精神力の問題にもしないし、すべてを環境のせいにもしない。そのバランスを、以前の私はあまり考えていなかった。
「弱い」ではなく「何に弱っているか」
「私は弱い」と考えると、問題になるのは自分そのものになってしまう。
でも、「私は今、何に弱っているのだろう」と考えると、少し違ってくる。 この環境で消耗している。この関係が負荷になっている。今は休息が足りていない。
そうやって対象がはっきりすると、取れる選択肢も変わってくる気がする。 人格の問題として抱え込むより、状態や環境の問題として見たほうが、次に何をすればいいのかが見えやすい。
自分を大切にすることの中身
以前の私にとって、自分を大切にするというのは、運動する、休む、ポジティブに考える、といった「自分側を整えること」がほとんどだった。
今は、それだけではないのだろうと思っている。必要以上に自分を消耗させる環境から距離を取ること、負担になっている関係を見直すことも、たぶん同じことのうちに入る。
以前は、自分を大切にすることがうまくいかないと、自分の意志が弱いせいだと感じていた。今は、そもそも大切にする対象が違っていたのかもしれない、と思う。内側だけを整えようとして、外側の負荷はそのままにしていたのだから、うまくいかなくても仕方がなかったのだと思う。
・ストレスに気づくことと、そのストレスを受け続ける必要があるのかを疑うことは別のことだった ・対処のための努力そのものが、もう一つの負荷になっていることがある ・強くなる方法を探す前に、何に弱っているのかを見てもいいのかもしれない
以前は寝る前に、その日あった出来事を何度も頭の中で再生していた。最近は、そのまま眠ってしまう日が増えた。
先日、以前よく胃のあたりが重くなっていたことを、ふと思い出した。
最近はその感覚が、ほとんどない。 別に何か特別なことをしたわけではない。ただ、日々の負荷が減っただけだ。
それに気づいて、少し拍子抜けした。 強くなったわけではなく、単に、そこまで耐える必要がなくなっただけなのかもしれない。

