自由というと、選択肢が多いことだと思われがちだ。たくさんの中から好きなものを選べる状態。私も、しばらくはそう思っていた。
でも最近、少し違う考え方をするようになった。この記事は、その考えの変化を自分なりに辿った記録である。
テレビがあった頃、無意識に音を受け取っていた生活
以前は、朝はニュース、夜はバラエティを、BGMとしてつけていた。内容をちゃんと見ている日もあれば、ほとんど見ていない日もある。ただ、帰宅したらつける、起きたらつける、という順番だけが決まっていた。
家に帰って部屋着に着替えると、椅子に座って、特に見たい番組があるわけでもなくテレビをつける。適当な番組を選んで、そのままBGMにする。たぶん、家にいる間はほとんどずっとついていた。
何を見るかを選んでいたわけではなかった。選んでいたのは「テレビをつけるかどうか」までで、その先に流れてくる音・ニュース・CMは、選んだ覚えのないまま部屋に入り込んでいた。テレビというのは、良くも悪くも、情報が向こうから流れてくるものだった。
テレビをなくして、自分で音を選ぶようになった
去年、引っ越しを機にテレビを置かない生活を始めた。深い理由があったわけではない。ただ、ふと「なくてもいいかもしれない」と思っただけだ。
なくしてみて変わったのは、部屋が静かになったことよりも、「今日は何を聴くか」を自分で決めるようになったことだった。音楽を流すか、何も流さないか。その日の気分に合うものを選んで流す時間もあれば、あえて何も流さない時間もある。
聴かされるのではなく、聴くという行為を自分の手に戻せたことが心地よかった。
情報も同じだった。テレビがついていれば、良くも悪くも情報は向こうから流れてくる。なくなってからは、何の情報を受け取るかも、自分で選ぶことになった。おかげで、音楽を楽しむ時間や、目の前のことに集中できる時間が、以前より増えた気がする。
「便利」と「必要」は同じではないと気づく
電子レンジも、今の生活にはない。
最初は少し不便かもしれないと思っていた。でも実際は、火で温め直したり、そのまま冷たく食べたりすることで、案外困らなかった。これは、電子レンジを使う人より偉いとか、手間をかける方が丁寧だとか、そういう話ではない。私にとってたまたま、なくても回るものだった、というだけのことだ。
「あると便利」なものは、暮らしの中にたくさんある。でも、便利さと必要さは、同じ意味ではない。あった方がいいものと、なくても困らないものは、実際に手放してみるまで区別がつかない。電子レンジがない生活は、その区別を自分の中で一つ確かめた、というだけのことだった。
物を家に入れることにも、自分なりの基準がある
家電にしても、日用品にしても、選ぶのに時間をかける方だと思う。デザイン、機能、価格、ひと通り調べる。
とりあえずで、家に物を置きたくない。一度家に入れてしまえば、それは毎日視界に入るものになる。だからこそ、入れる前の段階で慎重になる。焦って選ばない。決めきれないうちは、無理に手に取らない。
これは、物を大事にするという話とは少し違う。単純に、家という自分の生活領域に、何を常駐させるかという話だ。一度入れたものを簡単に手放せない性格だからこそ、入り口の方で立ち止まっている、というのが実際に近い。
人間関係にも同じように境界線がある
ここまでは、部屋の中の話だった。人との関わりを、物や家電と同じように扱うつもりはない。ただ、一つだけ、似た構造を感じた経験がある。
このまま関係を続けていたら、きっと自分が壊れてしまう。そう感じて、距離を取ったことがあった。
“選ばない”のではなく、“これ以上を求めない”という選び方もあると思う。関係を切ることと、これ以上深めないことは、似ているようで違う。後者にも、一つの決め方としての意味があったのだと、今は思っている。
自由とは、生活に何を入れるかを決められることかもしれない
選択肢が多いことを、自由だと思っていた時期があった。今は少し違う見方をしている。
自由というのは、たくさんの中から選べることよりも、自分の生活領域に何を入れて、何を入れないかを、自分で決められることに近いのかもしれない。テレビの音も、電子レンジも、家に置く物も、関わる人との距離も、気づかないうちに向こうから入り込んでくることの方が、実際には多い。
何を入れないかを決めることは、何を選ぶかを決めることより、地味で、目立たない作業だ。それでも、部屋を見渡したとき、そこにあるものが全部、自分で入れると決めたものだけになっている状態は、思っていたより静かに心地いい。

